七円玉の読書記録

Researching on Nichiren, the Buddhist teacher in medieval Japan. Twitter @taki_s555

雑記:「立正安国論」真蹟翻刻ほか

9月も大して投稿ができなかったが、申し訳程度に記せば、以下のようになる。

日蓮立正安国論」の真蹟翻刻について、今回は①、第七紙、仁王経引用中の「刀星」を中心に、ちまちま注記を加えた。
*: 立正安国論広本も「刀」(第四紙5行目)。平成新修含む多くの遺文集が「刁(ちょう)」と翻刻することを検証し、真蹟、写本、原典、注釈書、中国の正史等から「刀(とう)」が適切であるという指摘は、既に山中講一郎「『立正安国論』の文体(三)」(『法華仏教研究』第11号所収、2011年、105頁以下)に詳しく、この論考から「刀」であることは確定的となったと思う。なお同稿によれば、「刀星」とするテキストとしては神保弁静編『日蓮聖人御真蹟対照録』所収の稲田海素対照本、『日本古典文学大系 親鸞日蓮集』所収の兜木正亨校注本があるとされているが、後者と関連し兜木校注『日蓮文集』(岩波文庫)でも「刀星」(178頁)であった。さらに議論を広げると、この翻刻全般に関する重要な指摘を同稿で山中氏はなされている。すなわち「刀」漢字一文字を扱うことが些末な問題に見えるという周囲の予想に自覚的でありながら、なぜ先学の「刀」との指摘が無視され解明されずに放置されてきたのかと問い、そこには日蓮遺文・御書を扱うテキスト学、方法論上に若干の問題が潜んでいるとする。真蹟を翻刻する際、一般には既成のテキストを用い、それを真蹟原文と比較して異同をチェックしていくという方法が取られる。しかし、ここに落とし穴があって、既成のテキストに引きずられて、特に異体字の扱いとなると、何を拾い何を正字に置き換えるか、その判断が一定しなくなるという。こうした山中氏の指摘は、実際に作業をしてみて身に染みた。特に「刀」の翻刻正字だの新字だの旧字だの異体字といった、テキストの編纂方針以前の「解字・判読」の問題であるからこそ、すり抜けやすい。この指摘が重要な意味を持つ所以であろう。さて、日蓮が用いた字体は、その大多数に対して、日蓮独自というよりも当時としては一般的なものとみなす方が合理的であろう。ならば、平安・鎌倉期に用いられた用字法を研究する、具体的には空海法然親鸞らの真蹟、また当時用いられた経典の版本と比較する中で、異体字・略字等のより正確な翻刻が可能となるのではないかと思う。私は本稿で、ここまでに諸橋大漢和等を参照してきたものの、字典にないからといって特殊な字体とも限らないし、日蓮より遥か後代の字典(康煕字典にしろ諸橋大漢和にしろ)から字種を拾うより同時代か先代の例から拾う方が正攻法であることは、当然かもしれないが、私のような素人眼からここに改めて指摘しておきたい。異体字・略字・正字という概念自体が日蓮当時にあったのかという疑問も含めて。と書いてみたが、そもそも何が字体として存在するのかをまず知るために字典を繙くのも研究には当然の行為と言えるので、両方向からのアプローチが必要ということになろう。しかしやはり(日蓮より後代の諸橋やら日国にあるからといった)活字に引きずられてしまう「落とし穴」はこの字典によることに自覚的であったほうがよいだろう。
「立正安国論」真蹟翻刻①第一紙~第十二紙 - 七円玉の読書記録
「立正安国論」真蹟翻刻③終 第二十五紙~第三十六紙 - 七円玉の読書記録

日蓮が斬首される危機に遭った「竜の口の法難」の地、竜の口の刑場跡について、日蓮書簡やその他の史料から、その由来、位置、縁起等を調査している。特に、「腰越」「片瀬(固瀬)」との位置関係、また江の島の竜神・弁財天信仰との関係については、まだまだ知らないことがあったのでまとめてみたい。

○何気なく「滝泉寺申状」の日蓮による真蹟部分を読んでいると、日蓮自身の筆跡で「立正安國論」と書いてあり、立正安国論という書名の表記に「國」の字が使われていて驚いた。他の真蹟の用例等、調査を続けている。■