七円玉の読書記録

Researching on Nichiren, the Buddhist teacher in medieval Japan. Twitter @taki_s555

日蓮「開目抄」:日乾による真蹟対校本の翻刻⑦

日蓮による仏教史の叙述は、「開目抄」に限らず「撰時抄」「報恩抄」等、仮名交り文に頻出する。開目抄では今回63頁からの法相宗日本伝来の御代について、人王三十七代孝徳天皇か第四十五代聖武天皇か、諸本で異同があり少々注釈した。こうした叙述は翻刻④で述べたように、講談調に加工している点、佐渡流罪中の典籍に乏しい執筆環境下であった点、伝承を元としている点で、いささか正確さに欠ける等、現代歴史学から批判され得るだろう。しかし上原專祿が言うように、開目抄は立正安国論のような「でき上がった思想体系」よりも「思想の成立過程にアクセント」を置いていると見れば、釈尊まで手玉に取るようなその自在な筆致とともに能う限りの情報量を駆使して書き付ける日蓮の感情の起伏や思考の過程を読み取る方が有益と思われる(「日蓮遺文の扱いかたについて」、『上原專祿著作集26』評論社所収、1987年参照)。とはいえ、そういう鑑賞は厳密な考証をへてなされるものでもあることは言うまでもない。本稿で私がしばしば「些細なこと」と付言しておくのは、批判の予防線を張らんがためではなく、些細な検討に拘泥はしなければよいだけで、その必要性は訴えたいがためである。異体字翻刻の漏れは一々言及せず、ブログ更新と併せて過去記事を訂正することにした。ご容赦ください。

(61)
成ヲ存せリ𩀱*1林最後大般*2涅槃四十其外ノ
法芲前後ノ諸大乗ニ一字一句モナク法身
無始無終ハトケトモ應身身ノ顕本ハトカレスイ
カンカ廣愽*3ノ尓前本*4*5涅槃等ノ諸大乗ヲハ
ステヽ但出壽量ノ二品ニハ付ヘキサレハ法相宗
申宗ハ西天佛滅後九百年ニ無着*6ト申大
師有シキ夜ハ都率*7ノ内院ニノホリ弥勒
(62)
對面シテ一代聖教ノ不ヲヒラキ晝*8ハ阿輸舎国ニ
シテ法相ノ法門ヲ弘給彼ノ𢓦弟子ハ丗親
難陁戒䝨等ノ大師ナリ戒日大王頭ヲカタフケ
五天幢ヲ倒シテニ帰依ス尸那國ノ玄三蔵月
𫞕ニイタリテ十七年印百三十ノ國々ヲ見
キヽテ諸宗ヲハフリステノ宗土ニワタシテ
太宗皇帝ト申䝨王ニサツケ給肪*9尚光基ヲ弟
(63)
子トシテ大慈恩寺并ニ三百六十箇國ニ弘給
日本國ニハ人王第四十五代聖武*10天皇ノ𢓦宇ニ道
慈道昭等ナライワタシテ山階寺ニアカメ給ヘリ三國第
一ノ宗ナルヘシ宗云始芲厳経ヨリ終法華
涅槃ニイタルマテ无性有情ト𣲺定性ノ二乗ハ永ク佛ニ
ナルヘカラス佛語ニ二言ナシ一永不成佛ト定給
ヌル上日月ハ地ニ落給トモ大地ハ反*11〔ホン〕覆ストモ永ク變改
(64)*199頁
有ヘカラスサレハ法芲涅槃ノ中ニモ尓前ノ
々ニ嫌*12シ无性有情𣲺定性ヲ正クツイサシテ成佛
ストハトカレスマツヲ閉テ案せヨ法芲涅槃𣲺
定性无性有情正ク佛ニナルナラハ無着世親ホトノ
師玄慈㤙ホトノ三蔵人師コレヲ見サルヘシ
ヲノせサルヘシヤコレヲ信テ𫝊ヘシヤ弥勒
ニ問タテマツラサルヘシヤ汝ハ法芲ノ文ニ依ヤウ
(65)
ナレトモ天台妙樂𫝊教ノ僻見ヲ信受シテ其見ヲモツ*13
文ヲ見ルユエニ尓前ニ法芲ハ水火ナリト見ルナリ
宗ト真言宗ハ法相三ニハニルヘクモナキ超*14
宗ナリ二乗作佛乆遠實成ハ法華ニ限ス芲
大日ニ分明ナリ芲宗杜順智*15法蔵澄
真言宗无畏金剛智不空等ハ天台𫝊教ニハ
ニルヘクモナキ高位ノ人其上無畏等ハ大日
(66)
如來ヨリ糸ミタレサル相𣴎*16アリ等ノ権化ノ人
イカテカ悮*17アルヘキ隨*18厳経ニハ或*19見粎*20成佛道已
不可思議劫等云云大日ニハ我一切本初䓁
云云何但乆遠實成壽量品ニ限ランヘハ井底*21
*22カ大海ヲ見ス山㔫*23カ洛中ヲシラサルカコトシ汝但壽
量ノ一品ヲ見テ芲大日等ノ諸ヲシラサルカ其
上月𫞕尸那新羅百済等ニモ一同ニ二乗作佛乆
(67)
遠實成ハ法芲ニ限トイウカサレハ八箇年ノハ四十
年ノ々ニハ相せリトイウトモ先判後判ノ中ニハ後
判ニツクヘシトイウトモ尓前ツリニコソオホウレ又但
在丗計ナラハサモアルヘキニ滅後ニ居せル論師人師
多ハ尓前ツリニコソヘカウ法華ハ信カタキ上
丗モヤウヤク末ニナレハ聖䝨ハヤウヤクカクレ迷者ハ
ヤウヤク多丗間ノ浅キ事アヤマリヤスシ
(68)
何況出丗ノ法悮ナカルヘシヤ犢子方廣カ聰*24
ナリシヲ大小乗ニアヤマテリ無垢摩沓*25カ利根ナ
リシ権實二教ヲ弁ス正法一千年ノ内在
丗モ近月𫞕ノ内ナリシステニカクノコトシ況尸那日本等
國モヘタテ音モカハレリ人ノ根鈍ナリ壽命モ日アサシ
瞋癡モ倍増せリ佛丗ヲ去テトシ乆シ佛ミナアヤ
マレリ誰ノ智解カカルヘキ佛涅槃経記末法ニハ正
(69)*200頁
法ノ者爪上圡謗法者十方圡ト見ヘヌ法
滅盡ニ云謗法者恒河沙正法者一二ノ小石ト
ヲキ給千年五百年ニ一人ナントモ正法ノ者アリ
カタカラン世間ノ罪ニ依テ𢙣道ニ堕者爪上圡佛法ニ
ヨテ𢙣道ニ堕者十方ノ土俗ヨリ僧女ヨリ*26尼多
𢙣道ニ堕ヘシニ日案云丗ステニ末代ニ入テ二
年𨕙圡ニ生ヲウク其上下賎其上貧
(70)
道ノ身ナリ輪廽*27六趣ノ間人天ノ大王ト生テ万𫞖ヲナヒカス
事大風ノ小木ノ枝ヲ吹カコトクせシモ佛ニナラス大小
ノ外凢内凢ノ大菩ト修*28アカリ一劫二劫無
量劫ヲテ菩ノ行ヲ立ステニ不退ニ入ヌヘカリシモ強
ノ𢙣縁ニオトサレテ佛ニモナラスシラス大結縁ノ第
三類ノ在丗ヲモレタルカ乆遠五百ノ退転*29シテ今ニ來カ
法芲ヲ行せシ䄇ニ丗間ノ𢙣縁王*30道ノ小乗■

つづく

*1:=雙、双

*2:○の右脇に般。

*3:ただし右上の点はない。=博

*4:○の右脇に本。

*5:之繞の最初が一点u8ff9-gに見えるが、印刷品質による擦れの可能性があり判別し難い。

*6:→著

*7:異体字か。保留。

*8:=昼

*9:→昉。ただし「前」と同様、月部と日部の判読が難しく、「昉」である可能性も否定できない。

*10:御書全集では「人王三十七代・孝徳」(198頁)であるが、『現代語訳 開目抄(上)』では日乾本および日寛「開目抄愚記」を採用し四十五代聖武とする(なお後述に関係するので挙げるが、孝徳の在位は645-654。天武の在位は673-686。文武の在位は697-707。聖武の在位は724-749。道昭の生没年は629-700。玄昉の没年は746)。日存本は「第四十五代聖武」(平成校定605頁参照)。御書全集の表記は底本の縮刷遺文の表記を引き継いだと思われる。高祖遺文録は「人王四十五代聖武」なので、縮刷遺文による校訂が確認される。録内御書(宝暦修補本)は「人王四十五代聖武」。平成新編および平成校定、平成新修は「人王三十七代孝徳」。昭和定本は同前で日乾本の注あり。表記の異同について、「第四十五代聖武」を採用した兜木正亨が詳細に注記しているので以下に引用する。「昭和定本に「人王第三十七代孝徳天皇の御宇」(引用者注=「第」は最新版の昭和定本にはない)と訂しているのは、報恩抄(昭定一二〇七)に「人王第三十七代に孝徳天王御宇に、三論宗華厳宗法相宗・俱舎宗・成実宗わたる。人王四十五代に聖武天皇の御宇に律宗わたる」とあるによったものであろう。法相宗の伝来を記したこの句にいう道昭は、わが国にはじめて法相宗を伝えた人で、入唐は孝徳天皇の白雉四年(六五三)であるが、帰朝の時は既に孝徳天皇の御宇をすぎている。道慈の入唐は、それよりあとの文武天皇の御宇、帰朝は元正天皇の御宇であるから、これまた孝徳天皇の御宇というのは当たらない。聖武天皇の御宇に道昭・道慈を結びつけることに無理があり、また孝徳天皇とも結びつかない。このことから見て、この文の意味は、聖武天皇の御宇に、(まえに)道慈・道昭等がつたえて(あった)法相宗山階寺にあがめた、と解釈するのほかはない。しかし、この二人は、山階寺興福寺)に住した人ではない」(『日本古典文学大系82 親鸞日蓮集』岩波書店、502頁、補注八二)と。ちなみに報恩抄のこの文の日乾対校本は「人王第卅七代ニ孝徳天王𢓦宇ニ三論宗厳宗法相宗俱舎宗成實宗ワタル人王四十五代ニ聖武天皇ノ𢓦宇ニ律宗ワタル」(『報恩抄 乾師対校本』梅本正雄編、本満寺刊、1965年、45頁、真蹟不在部分、御書全集302頁に該当)である。日寛「開目抄愚記」では「仁(ママ)王四十五代」を注釈し、「報恩抄上二十にいう「人王第三十七代・孝徳天王御宇に三論宗華厳宗法相宗・俱舎宗・成実宗わたる」とは、この御宇に道昭等これを渡すなり。今「四十五代」等とは、この御宇に玄昉これを渡すなり。総じて法相宗は四度の伝来これあり。故に応具に云く「人王三十七代・孝徳天皇の御宇より人王四十五代聖武天皇の御宇までに道慈、道昭等之を渡す」と云云。「等」とは玄昉を等取するなり」(前掲『日寛上人文段集』109頁、ここにある「応具」の意味が分からなかった)と記す。「この御宇(=人王第三十七代)に道昭等これを渡す」は兜木の言う通り無理がある。「この御宇(=四十五代)に玄昉これを渡すなり」は玄昉の帰国が天平7(735)年、聖武在位中であるから整合が取れる。「四度の伝来」とは凝然『三国仏法伝通縁起』によるものであろう。開目抄の記述にある「山階寺」は興福寺であり、北寺伝(興福寺系)とされる玄昉の第四伝で日寛が会通しようとするのには一定の妥当性があると言えよう。ただし『八宗綱要』が日蓮在世の佐渡流罪前、文永5(1268)年成立、『三国仏法伝通縁起』は日蓮没後の応長元(1311)年成立である点は注意したい(凝然『三国仏法伝通縁起』楠潜龍編、好文堂、明治9年国立国会図書館デジタルコレクション参照。小野玄妙編『仏書解説大辞典』(大東出版社)第四巻「三国仏法伝通縁起」項では「慶長元年」成立としているが誤植であろう。その他、法相宗伝来については『事典 日本の仏教』(蓑輪顕量編、吉村誠氏稿、吉川弘文館)、『八宗綱要』(鎌田茂雄全訳注、講談社学術文庫)を参照した)。ちなみに報恩抄の文について日寛「報恩抄文段」では「文に云く「三十七代・孝徳天王の御宇(までに)乃至成実宗わたる」と文。応に此くの如く点ずべし。これ則ち孝徳天皇の御宇に五宗整束するが故なり」(前掲『日寛上人文段集』364頁)と注釈している。その他の日蓮の著作における法相宗日本伝来の記述を確認しておこう。「撰時抄」(建治元年、真蹟現存、第二十三・二十四紙)では「其の後、人王第三十七代に孝徳天王の御宇に三論宗成実宗を観勒僧正、百済国よりわたす。同御代に道昭法師、漢土より法相宗倶舎宗をわたす。人王第四十四代・元正天王の御宇に天竺より大日経をわたして有りしかども、而も弘通せずして漢土へかへる。此の僧をば善無畏三蔵という。人王第四十五代に聖武天皇の御宇に審祥大徳、新羅国より華厳宗をわたして、良弁僧正・聖武天王にさづけたてまつりて、東大寺の大仏を立てさせ給えり。同御代に大唐の鑒真和尚、天台宗律宗をわたす」(263頁参照)とある。日寛「撰時抄愚記」では道昭による伝来については注釈がなされていない。「神国王御書」(文永12年=建治元年説があるが定まっていないようである、真蹟現存、第五・六紙)では「人王三十六代・皇極天皇の御宇に禅宗わたる。人王四十代・天武の御宇に法相宗わたる。人王四十四代元正天皇の御宇に大日経わたる。人王四十五代に聖武天皇の御宇に華厳宗を弘通せさせ給う。人王四十六代・孝謙天皇の御宇に律宗法華宗わたる」(1517頁)とある。ここで言う天武の御宇に伝来は、凝然が言う四伝のうち相当するものがない。また撰時抄との記述とも齟齬があり、本抄の経年が同じ建治元年かは検証が必要であろう。「妙密上人御消息」(建治2年、本満寺本)では「それより後、人王三十七代・孝徳天皇の御宇に観勒僧正と申す人、新羅国より三論宗成実宗を渡す。同じき御代に道昭と申す僧、漢土より法相宗倶舎宗を渡す。同じき御代に審祥大徳、華厳宗を渡す。第四十四代元正天皇の御宇に天竺の上人、大日経を渡す。第四十五代・聖武天皇の御宇に鑑真和尚と申せし人、漢土より日本国に律宗を渡せし」(1237頁参照)とあるが、真蹟は現存せず本満寺本では「道昭と申す僧、漢土より法相宗倶舎宗を渡す。同じき御代に」の部分がないから、考察の対象外とすることもできる。「本尊問答抄」(弘安元年、日興写本)では「孝徳の御宇に道昭、禅宗をわたす。文武の御宇に新羅国の智鳳、法相宗をわたす」(369頁参照)とある。昭和定本、また兜木が日源写本を底本とした日本思想大系(岩波書店)収録本は「天武」である。智鳳による伝来は、凝然が言う第三伝に相当し北寺伝(興福寺系)である。しかし入唐は大宝3(703)年であり、これは天武ではなく「文武」の御宇であるから、御書全集の表記の方が整合は取れる。さて、日蓮在世中に成立した『八宗綱要』には道昭による伝来の記述がないが、『三国仏法伝通縁起』に至って道昭による初伝を記す。日蓮在世当時に道昭初伝が普及ないし話題となっていたのだろうか。日蓮の著作を経年順に見れば、開目抄、撰時抄では道昭に言及したが、神国王御書、報恩抄では言及しなくなるものの、再び本尊問答抄で禅の将来者として道昭を挙げる。以上から、日蓮在世当時の仏教界では法相宗日本伝来に関する伝承が交錯していたと推測できる。余談であるが、日蓮の著作には、弟子への書簡にまで長々と仏教伝来の歴史を綴ることが少なくない。私は他の鎌倉仏教の祖師たちに明るくないが、こうした歴史の叙述、歴史意識の開陳は、日蓮書簡の際立った特徴なのではないかと思う。一遍、親鸞道元らにこうした記述はあるのだろうか。「立正安国論」における国土安穏に対する強い意識にも通じるし、自身を「法華経の行者」と規定した以上、そうせざるを得なかったのかもしれないが、日蓮が自身を歴史的現実を生きる主体としてどう歴史上に自己及び法門を位置づけるかという意識が強く働いていた形跡と拝観している。追記。「和漢王代記」(真蹟断簡現存)では、「第四十五聖武」の項に六宗及び法相宗を図示している(真蹟現存箇所、御書全集609頁参照)。これは聖武の代には六宗が伝来し揃ったという意味と解せるだろう。なぜなら第三十七代孝徳から第四十四元正までの項に特記がないからである。また「一代五時継図」では、法相宗の祖師として日本の項に、智鳳・義淵・空晴・真喜・善議・勤操(御書663-664頁)を挙げているが、本抄は真蹟がなく三宝寺録外であるため考察の対象外とする。この六人については御書全集の検索(図録以外)では、智鳳は前掲の本尊問答抄の文で、善議・勤操はいわゆる南都七大寺の六宗の碩学十四人としてヒットするが、義淵・空晴・真喜はヒットせず同抄でのみの記述となる。道昭を挙げていないことからも同抄の記述が疑わしい傍証となるかもしれない。なお玄昉の用例は、開目抄本翻刻62頁の「昉」のほか、報恩抄で「玄昉等、大日経の義釈十四巻をわたす」(御書全集304頁参照)とあって『大日経義釈』を将来した人物として挙げるのみである。

*11:異体字。u2d1a5-j

*12:異体字

*13:○の右脇にツ。

*14:保留。

*15:→儼

*16:=承

*17:=悞

*18:=随

*19:○の右脇に「ニハ或」。

*20:之繞の最初が二点に見えるが、これも印刷品質による擦れの可能性があり判別し難い。

*21:广の下が𫞕である異体字。koseki-105410

*22:虫部が䖝である異体字

*23:=左

*24:=聡

*25:白部が旧である異体字。zihai-101039

*26:○の右脇に「女ヨリ」。

*27:=廻

*28:脩の月部が久である異体字。kamiyo_chars-u4fee-itaiji-001

*29:≒轉。u8f49-ue0102

*30:○の右脇に外。