七円玉の読書記録

Researching on Nichiren, the Buddhist teacher in medieval Japan. Twitter @taki_s555

トルストイ『懺悔』のパンチ力

こんな読みやすかった? Twitterの140字いっぱい使ったまじめなツイートが読めるなら、そんなふうに感じるのではないでしょうか。

トルストイ『懺悔』(原久一郎訳、岩波文庫)読了。『戦争と平和』等で文豪の名声を確立したトルストイが、自死まで思いつめながらも、信仰遍歴の中で自己批判し再生しゆく。晩年の代表作『復活』へと続く、彼の生涯を語るうえで欠かせないのが本作、というようなあらすじはどこかのレビューにお任せいたします。

岩波文庫の昔の版。字は小さく、ページも少ない。リクエスト復刊の新品を読みました。この昔の版面のほうが、余白と文字量のバランスがよく、焦点距離が合わせやすいように感じます。一文が長く、指示代名詞が曖昧なところがありますが、トルストイの己心の披歴の息づかいを丹念に追う感じがして、また驚くほど現代的な内容です。

トルストイは、自らが従っていた信仰の教理や習慣によって、かえって自身の人間性が破壊されていったことに気づいていきます。その筆致を、以下、この岩波文庫(原久一郎訳)の14, 15章から引用します。(罫線、太字は引用者による)

この当時の私には、生きるために信仰を持つことがどうしても必要だった。でそのために、教義のさまざまな矛盾や曖昧な点を、無意識に自分に対して蔽い隠したほどであったが、しかし、これらの儀式(引用者注=前章で語られる懺悔の儀式、毎日の礼拝祈禱、戒食)に意義をつける上には限度があった。(109頁)

 ……教会におけるこれらの祭日の勤行の際には、私はいつも、自分にとっていちばんくだらないと思われているものが、いちばん重く見られていることを感じた。(111頁)

……私は教会のいろいろな儀式を堅く正しく守り続け、相変わらず、自分の従っている教理教条の中に真理があると信じていた。(113頁)

 ……何か理解できないようなことがあると、私は自分に言うのだった。《私が悪いのだ、私が責められるべきなのだ。》が、いろんな真理を学んでその心髄に深くはいって行くに従い、それらの真理が人生の基礎になってくるに従って、これらの矛盾がだんだん苦しく耐え難いものになってきた。そして、私に理解する努力がないために理解しない事柄と、自己を偽らずには絶対に理解できない事柄との間に横たわる一線が、ますますはっきりしたものになってきた。

これらの疑惑と苦悶にかかわらず、私はいぜんとして正教にしがみついていた。が、どうしても解決せずにはいられない人生上のいろいろな問題が、つぎつぎと起こってきた。そして、これらの問題に対する、私の育てられてきた信仰の根本に反する教会の解決が、正教に参じ続ける可能性を、完全に私から奪い取ってしまったのである。それらの問題というのは、まず第一に、正教会と他の教会、すなわちカトリックや異端派と呼ばれている諸宗派、との関係であった。この自分に私は、信仰というものに強く心をひかれた結果、種々様々な教義を信奉する人々と交わった。--カトリック教徒、新教徒、旧教徒、モロカン教徒などの人々である。そして私は彼らの間で、道徳的にレベルの高い、ほんとうに信仰している多くの人々を見いだした。私はこれらの人々と兄弟になりたいと思った。しかも、どうだろう!--すべての人を唯一の信仰と愛とによって結合するものと思われていたその教えは、--彼らの中の最高の代表者達によって代表されるその教えは、--彼らのすべてが虚偽に生きている人間であること、彼らに生の力を与えるものが悪魔の誘惑にすぎないこと、われわれのみが唯一の真理の信仰の下にあるのだということを、私に告げ知らせたではないか。私は正教会の人々が、彼らと同じ信仰を持たないすべての信者を異端とみなし、同様にカトリック、その他の宗派の人々が、正教会の人々を異端と見なしていることを発見した。私はまた正教の人々をはじめ彼らすべてが、外形的な信条や言葉によってその信仰を信奉していないすべての者に、仇敵のような態度を示していることを発見した。ーー正教の人々は、そうした態度を隠そうとしているけれども、やはりそういうことをやっているのだし、またむしろしれが当然なのである。というわけは、まず第一に、お前は虚偽の中に生きているが、私は真実の中に生きているという断言は、甲の人間が乙の人間に向って発し得るいちばん残酷な言葉だからであり、そして第二に、自分の子供や兄弟を愛する人間なら、彼らを虚偽の信仰に改宗させようと欲する人々に対して、仇敵のような態度を取らずにはいられないはずだからである。しかもこの敵意は、彼らがその教理教条を深く知りきわめるに従って、ますます増大するのである。こうして、愛による融合一致の中にのみ真理があると思っていた私の眼に、肝腎の教理教条が、自己の当然生み出すべきはずのものを、破壊しつつあるという事実が、焼きつけられた次第であった。(115-116頁)

種々様々なあらゆる宗旨の僧侶達、いな、それらの宗旨の最高の代表者達ですら、自分達の安住の地が真理の世界であって、他の連中のそれは迷いの世界であるということと、それらの人々のために祈ってやることが自分達のなし得るすべてであるということ以外、私に対して何にもとき聴かせてくれなかった。(117-118頁)

ここにいたって私はすべてをさとったのである。私は信仰を、人生の原動力となるものとして探求しているのだが、彼らは人としての一定の義務を他人に対して果たすための、最上の手段を求めているにすぎないのだ。そして、そういう人間としての義務を果たす場合に、それを人なみにやっているにすぎないのだ。(119-120頁)

以上が意味することは、トルストイにとって、「既存の信仰活動が修道たりえなかった」という告白と言えるのではないでしょうか。そして本書の結論(省略)は何ともシンプルなようでいて、上記の逡巡をへたうえにある重みを感じます。

自らにとって生きる力となり得る信仰とは何なのか? この問題意識は、下記過去記事における引用二つとつながっていきます。
taki-s.hatenablog.com

ともあれ、この『懺悔』、

  • 学校や家庭など、自分の生育環境の中で、居心地の悪さを感じながら過ごしてきた
  • 閉鎖性が生まれやすい会社や組織の中で、疑問を抱きながらもそれを押し殺してきた
  • 宗教を熱心に信じる家庭に生まれ育ってきた

そういう人におすすめできる一冊です。

なぜかAmazonの中古品はけっこう高値ですけど、増刷して、書店員さんがうまくポップを作ってくだされば、平積みで売れるんじゃないかと勝手に期待。■

懺悔 (岩波文庫 赤 619-0)

懺悔 (岩波文庫 赤 619-0)