平岡聡『南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経』(新潮新書)
なんとも、おどろおどろしいタイトルのような。仏教学者の平岡聡氏による『南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経』(新潮新書)です。
人と法の関係について
ライトな新書ですが、結構、鋭い引用があったので、メモします(同書75頁)。三枝充悳『ブッダとサンガ』(法蔵館、99頁)を孫引きすることとなってしまいますが、こちらの原典も確認しておきました。
しかもこのダンマは、ブッダという特定の個人のいわば人格そのものに裏づけられており、そのブッダ個人を除いては、このダンマそのものは出現し得なかった。すでに存在していたはずのダンマの自己開陳では決してなかった。このダンマはブッダという個人ーー人格を通してこそ、ダンマであり得た、ダンマとなり得た、といっても過言ではない。
ブッダ、仏は、「法を覚った人」という意味ですが、この 「法」は、サンスクリット語のダルマあるいはパーリ語のダンマの訳で、「道」とも訳されます。ダルマは、保つ、支持する、担うという意味の語根、ドリフからつくられた言葉です。「法」といっても、何か法則的なものが人間という主体を離れてあって、それを覚知したというわけではなく、人としての道理、軌道とでもいいますか、人間性を通してこそ発揮される、という言い方になるのかもしれません。中村元は『原始仏典を読む』(岩波現代文庫、183頁)で、法とは「人間として守らねばならない道筋」と述べています。仏教が説く「中道」も、「道に中(あた)る」と読むように、両極端の真ん中ということではなく、人としての道に反していない、無理していない、といった意味になろうかと思います。
人と神のはたらきについて
この一節を読んだとき、宗教は違えど、カトリックの神父・本田哲郎氏の『釜ヶ崎と福音』(岩波書店刊、後に岩波現代文庫)の一節と、共鳴しあうものを感じました。引用します(同文庫、49頁)。
人の痛みを素直に、敏感に受けとめ、共にひびき合える自分になれたとき、そのとき、あらためて、神さまの力が自分をとおしてもはたらいてくださるようになるに違いありません。さらにいえば、そういう自分に変えてくれるのは、神による奇跡ではなくて、やはり痛みを知る人々との関りをとおしてなのです。神さまのはたらきは必ず人をとおしてなされるのだと思います。キリスト教を生み出したその源泉も、たどりたどっていちばん根っこのところにいけばそうなのです。
本田氏が宗教の原点に引き寄せて、「痛みを知る人々との関り」と述べているのは、あえて仏教的に言えば、菩薩行となるでしょう。そしてこんなふうに菩薩行とか規定した途端に、本田氏がここで言いたかったことから遠ざかって、宗派性、教条主義的ものに堕してしまう。また「痛みを知る人々との関り」とは、ブッダの振る舞いそのものでもあったでしょうし、聖書におけるイエスと初期経典におけるブッダの言行が、いかに似通ったことか。
二つの引用は、教理的には違う宗教であっても、信仰実践としては、同じベクトルに向かっており、まさしく、それを生み出す源泉にたどっていくと限りなく根っこが同じな気がしてなりません。(そういえば、『聖(セイント)☆お兄さん』(中村光、講談社モーニングKC)という、イエスとブッダが主人公の漫画がありましたね)
最初に掲げた『南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経』は、法然と日蓮の生涯と教えをさまざまな観点から比較したもので、他にも啓発的なことがいろいろあったので、またメモしたいと思っています。 ■
釜ケ崎と福音――神は貧しく小さくされた者と共に (岩波現代文庫)
- 作者: 本田哲郎
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2015/02/18
- メディア: 文庫
- この商品を含むブログ (4件) を見る