七円玉の読書記録

Researching on Nichiren, the Buddhist teacher in medieval Japan. Twitter @taki_s555

疫病と日蓮③ 弥三郎殿御返事 ノート

建治3(1277)年8月4日、与弥三郎、弥三郎殿御返事(真蹟ナシ、京都本満寺本)、御書1449頁、定253番。(参考文献の略記の詳細は末尾に記載)

本文抜粋①
されば今の日本国の諸僧等は、提婆達多・瞿伽梨尊者にも過ぎたる大悪人なり。又、在家の人々は此等を貴み供養し給う故に、此の国眼前に無間地獄と変じて、諸人現身に大飢渇・大疫病、先代になき大苦を受くる上、他国より責めらるべし。此は偏に梵天・帝釈・日月等の御はからひなり。(御書1450頁参照)
現代語訳
そうであるから、現在の日本国の諸宗の僧たちは、提婆達多や瞿伽梨尊者をも超えた大悪人である。また在家の人たちが、これらの僧を貴んで供養するから、この国が眼前に無間地獄へと変わってしまい、人々は現実の身に、大きな飢えと渇き、大きな疫病によって、先の時代にないほど大きな苦しみを受けているうえ、他国(蒙古=モンゴル帝国)からも責められている。これらはひとえに、梵天帝釈天、日天・月天などの御計らいである。 

本文抜粋②
今年の世間を鏡とせよ。若干の人の死ぬるに、今まで生きて有りつるは、此の事にあはん為なりけり。此れこそ宇治川を渡せし所よ。是こそ勢多を渡せし所よ。名を揚るか名をくだすかなり。(御書1451頁参照、「今年の世間」に疫病も含まれるのでここに引いた)
現代語訳
今年の世間の有り様を鏡としなさい。多くの人が死んでいるのに、今まで生きてこの世にいるのは、このこと(=狭義には念仏僧との法論、広義には受難を忍び法華経を弘通すること)に巡り合うためである。これこそ、(戦いの要衝である)宇治川を渡す所だ。これこそ、勢多川を渡す所だ。名を上げるか、名を下すかの大一番である。

書誌情報 補遺で修正
真蹟は現存しない。写本は本満寺本(文禄4年=1595年集成)があり、これにより執筆年月日に異論はないようである。〔追記 2020/06/24:本満寺本の本文に執筆年は記載されておらず「八月四日 日蓮在御判」(12巻109番=『本満寺御書下』梅本正雄編、本満寺刊、87頁)とあるのみで、後述する同本目録にも執筆年は記載されていないようだから、これによって執筆年が判断されたわけではないようである。〕本文に「建治三年丁丑八月四日 日蓮 花押/弥三郎殿御返事」とある。高祖、縮遺も同じ。
本文冒頭は欠けているような印象を受けなくもないが、本満寺本では冒頭「是」の一字が「夫」となっているとのことで(定1366頁)、「夫れ無智の俗にて候へども」と言いたいのだろうか。なお高祖23巻30丁、縮遺1620頁も「是」。

書簡概容
弥三郎が念仏僧と問答をする状況下にあったらしく、その際の心得や方法について日蓮が教示した書簡である。本書における念仏宗批判の論点は、日本をはじめ娑婆世界(人間が生きる現実世界)の教主・釈迦仏を蔑ろにして、衆生救済のため仮の姿として示された他土の教主・阿弥陀仏を貴んでいる点である。

弥三郎について
弥三郎への書簡はこの一通のみであり、内容から推測すると、冒頭「無智の俗」とあるから在家であり、さらに「所領を惜み」以下から武士であると推測され、「地頭のもとに召さるる事あらば」以下から、社会的地位は地頭未満であるわけだが、どの程度の身分かは判断しかねる。そして在俗の身でありながら、念仏僧(本文に「法師」とある)と問答する可能性があった(後述)。本文からは弥三郎の居住地を示す文言は見出せない。船守弥三郎許御書(御書1445頁、定26番)を与えられた伊豆・川奈の船守弥三郎とは別人と言われている。
しかし日蓮遺文の目録の中には、昭和定本所収の本満寺録外御書目次の十二巻十一通の項に「二五三 彌三郎殿御返事 私云鎌倉ノ住人也」(定2786頁)とある。「私云」と断るあたり慎重であるが、この注記者は誰なのか。遺文辞典歴史篇1059頁(高木豊)によれば、昭和定本に載せたこの目録は日成によるもの(1766年正月)の翻刻ではなく、昭和定本収録のため編纂委員会が新たに作成したものとのこと。同目録にある注記は三系統あるようで誰のものかは判別しかねる。
また境妙庵御書目録(1770年、日通)では「二五三 一船守抄 建治三年八月四日」(定2810頁)、さらに新定祖書目録攷異(1845以前編=堀日亨説、日騰)の建治三年丁丑に「二五三 與船守彌三郎書 八月四日/繋年舊(=旧)説」(定2838頁)と記載されており、題号を含め、弥三郎を船守弥三郎と同一視しているが、根拠がわからない。他にも説があるが根拠が薄弱で省略する。

疫病について
先に述べたように、娑婆世界の教主・釈尊を蔑ろにして縁のない他土の教主・阿弥陀仏を貴ぶことを責める論法は、下山御消息(御書343頁)など日蓮が浄土宗を批判する際の常套句だが、在家にとってもわかりやすいポイントであると同時に、日蓮による他宗批判にあって比重の高い論点と言える。そのような仏法の顛倒によって、疫病等災難が起こり日本の民衆が苦しんでいる様に対し本文抜粋①で「此は偏に梵天・帝釈・日月等の御はからひなり」と述べている。こういう言説は日蓮信徒なら中世的神仏の世界を無条件に受け入れていることも忘れて首肯するだろうし、対して現代人なら一見しただけではその論理に戸惑いをもつことであろう。仏法を乱す勢力には仏の守護神が発動して戒め警告するということなのだが、その前提には、中世日本の精神世界に神仏が圧倒的に大きな存在価値があるものとみなされていた、というよりそれが自明なものとして無意識に信じられる世界観を生きていたことが挙げられる。このことは、現代人が日蓮の言説に触れるさいに受ける非合理的表現、古臭さに対する、科学や合理的思考に染まった人(=他ならぬ自分)への弁明としたい。これについては稿を改めどこかでガチで書こうと思う。
疫病については、先に疫病と日蓮① 四信五品抄 ノートで触れたのと同様、人々が苦しむ災難の一つとして飢饉と並置されている。飢饉と疫病の関係については、立正安国論の正嘉当時についてであるが、以下のような解説がある。「長期的な気候変動からみて寒冷期にあたる鎌倉時代は、慢性的な飢饉の時代だった[磯貝二〇二〇(=磯貝富士男『中世の農業と気候』吉川弘文館)]。ほぼ一〇年から二〇年をサイクルとして、繰り返し飢饉が到来した。その中でもここで描写される正嘉の飢饉は、寛喜のそれとならぶ最悪のものであり、長く人々の記憶に留まることになった。飢饉は人々の体力を奪い、抵抗力の落ちた体は容易に病原菌の侵入を許した。その結果飢饉は必然的に疫病の流行を伴った」(『日蓮立正安国論」』佐藤弘夫全訳注、講談社学術文庫、66頁)

武士の価値観を刺戟する表現
本文抜粋②の「今まで生きて有りつるは、此の事にあはん為なりけり……名を揚るか名をくだすかなり」を、いわゆる檄を飛ばす口調、あるいは強い励ましと見てよいものだろうか。私は別の視点も併せて持っておきたい。すなわち、戦功や名利を重んじる武士の価値観を刺戟する表現である点である。四条金吾対しても「百二十まで持ちて名をくたして死せんよりは、生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ」(御書1173頁参照)のように似た表現があるが、日蓮書簡には、世俗的価値や名聞名利を称賛するかのような言説を用いて仏法や法華経に導こうとする姿勢が看取される。既存の価値観を否定せず内包した上で、より高次のいわゆる出世間、仏法の教えへと導いていく。私はこの理由を、門下はそれぞれの出自、立場、文化、慣習からそう簡単に逃れられない現実生活を生きているからであると見たい。光日房御書(御書926頁)と名づけられる書簡には武士の弥四郎が人殺しを生業とする葛藤とそれに対する日蓮の応答が綴られているが、これはその端的な例と言ってよいだろう。特に世俗的価値と距離を置ける出家と違い、在家に対しては、いっそうそうした注意を払ったのではないだろうか。

法論との関連
そのような口調であるにせよ、さらに別の視点として、この念仏僧との対論は弥三郎のみならず、日蓮及びその教団にとっても一大事であったようである。というのも、この建治3年頃は、僧俗を問わず門下の受難が増えており、静岡、山梨、神奈川、東京と方々で法論や周囲との軋轢に対して応答が求められているからだ。例えば、駿河国では南条時光周辺で内外から批判が出ており、5月に日蓮が懇切丁寧に対処の仕方を教えている(御書1537頁)。6月には甲斐国因幡房日永が主君から法華経信仰をとがめられており、弁明のために下山御消息(御書343頁)を本人に代わって日蓮が著しているが、本書も念仏批判である。また同月に相模国の鎌倉で桑ケ谷問答が行われ、日蓮の門下・三位房が竜像房と法論、これには四条金吾随行し、それを機に金吾に讒言が及び彼は主君・江間氏の怒りをかい、金吾に代わって日蓮が弁明書・頼基陳状を著している(御書1153頁)。11月には、武蔵国池上の池上宗仲が父から二度目の勘当を受けている(御書1090頁)。こうした一年の中で、8月の弥三郎殿御返事の内容も把握できるのではないかと思う。〔なお、石本日仲聖人御返事(御書1454頁、定263番)では、日蓮は9月に駿河国の岩本実相寺の住僧といわれる日仲に、真言師等が法論を画策しているという噂があることを述べている。本書は昭和定本では鈴木一成説として建治3年としているが建治元年説もあり定まっていない〕

さて、日蓮佐渡流罪をへて鎌倉で平頼綱と会見したのち、身延へ入山して以降、どこかへ出向いて他宗の僧と法論をした記録は残っておらず、入滅直前まで一歩も身延を出ていないようである。そのような兆しはあったことは書簡(諸人御返事、御書1284頁、定280番)から伺えるが実現していない。代わって門下が法華経弘通を進め、法論する機会が格段に増え、それを日蓮が後方支援するさまが見て取れる。しかし今、そのような兆しと書いた、弘安元(1278)年3月に訪れる公開法論の兆しが生まれたのは、こうした門下の弘教が影響しているのではないかと想像を膨らましている。諸人御返事については、本文で「日蓮一生の間の祈請並びに所願、忽ちに成就せしむるか。将又、五五百歳の仏記、宛かも符契の如し。所詮、真言禅宗等の謗法の諸人等を召し合わせ是非を決せしめば、日本国一同に日蓮が弟子檀那と為り、我が弟子等の出家は主上上皇の師と為らん。在家は左右の臣下に列ならん。将又、一閻浮提皆、此の法門を仰がん」(同頁参照)とまで述べられているが、これについて上原專祿は「日蓮身延入山考」(『死者・生者――日蓮認識への発想と視点』未来社所収)で「異常に高揚された意識とはなやいだ気分」(同書199頁)とその特異な筆致に着目している。この着想をもとに、今後は本題の探求の傍ら、この公開法論を実現させる目的意識が門下にあり、そのための運動としての上記のような門下の法華弘通および受難という一側面があったのか、またこの公開法論が挫折し翌・弘安2(1279)年を頂点とする熱原法難へと向かう日蓮の言動、教団の動向の変化を追ってみたい。■

略記
御書:新編日蓮大聖人御書全集(創価学会版)
定または昭和定本:昭和定本日蓮聖人遺文(立正大学日蓮教学研究所編)
遺文辞典歴史篇:日蓮聖人遺文辞典歴史篇(立正大学日蓮教学研究所編)
高祖:高祖遺文録(日明・小川泰堂編)
縮遺:日蓮聖人御遺文(=縮刷遺文、加藤文雅編、本間解海・稲田海素対校、霊艮閣版)