七円玉の読書記録

Researching on Nichiren, the Buddhist teacher in medieval Japan. Twitter @taki_s555

疫病と日蓮④ 弥三郎殿御返事 補遺

以前、疫病と日蓮③ 弥三郎殿御返事 ノートを書いたが、さらに調べると書誌情報に補正が必要となったので、ここに当該箇所のみ整理しなおした。

建治3(1277)年8月4日、与弥三郎、弥三郎殿御返事(真蹟ナシ、京都本満寺本)、御書1449頁、定253番。(参考文献の略記の詳細は末尾に記載)

書誌情報
真蹟は現存しない。写本は本満寺本(文禄4年=1595年集成、本満寺録外12巻109番=『本満寺御書下』梅本正雄編、本満寺刊、87頁)がある。執筆年月日に異論はないようである。御書1451頁、定1370頁、高祖23巻33-34丁、縮遺1624頁では、本文に「建治三年丁丑八月四日 日蓮 花押/弥三郎殿御返事」とある。
しかし本満寺本の本文に執筆年はなく「八月四日 日蓮在御判」(前掲『本満寺御書下』91頁)とあるのみで、後述する同本目録にも執筆年は記載されていないようだから、同本によって執筆年が判断されたわけではない。刊本録外(録外2巻23丁)、ここでは『縮刷 録内・録外』(大石寺内事部発行、昭和48年)によれば、これも「八月四日/日蓮 御判」(同書1789頁)と執筆年は記載されていない。よって、いつ、何によって建治3年作が定説とされるに至ったのか判断しかねるが、高祖遺文録(1880)の時点で本文に「建治三年丁丑」と入れてあるあたりが気になる。

ちなみに昭和定本所収の目録で執筆年に言及しているものは以下の通り。
境妙庵御書目録(1770、日通)「二五三 一船守抄 建治三年八月四日」(定2810頁)。
祖書目次(1779、日諦)建治三年丁丑「二五三 與彌三郎書」(定2818頁)。
新撰校正祖書目次(1814、日明)建治三年丁丑「二五三 與彌三郎書 八月四日」(定2830頁)。
新定祖書目録攷異(1845以前編=堀日亨説、日騰)建治三年丁丑「二五三 與船守彌三郎書 八月四日/繋年舊(=旧)説」(定2838頁)。

同書の執筆年および疫病の記述については若江賢三「御書の系年研究(その1)――弘安年間の諸事象について――」および「御書の系年研究(その2)――表現・表記の変化からの考察――」(『東洋哲学研究所紀要』21, 22号、2005, 06年)で言及されており、疫病の流行時期から建治3年執筆が望ましいと指摘されている。

なお刊本録外については前掲『縮刷 録内・録外』は、録内収録分末尾に「宝暦第六丙子歳補之功畢」(40巻20丁=『縮刷 録内・録外』1711頁)とあるから、宝暦6(1756)年の録内修補改刻版、いわゆる宝暦修補本であるとわかる(録外は寛文9=1669年、寛文2=1662年版のまま)。上記録内・録外御書の刊本については兜木正亨校注『日蓮文集』岩波文庫の解説等を参照。

本文冒頭は欠けているような印象を受けなくもないが、本満寺本では冒頭「是」の一字が「夫」となっていると昭和定本で指摘されており(定1366頁)、原典に当たると確かに「夫無智ノ俗ニテ候ヘトモ」(前掲『本満寺御書下』87頁)となっている。刊本録外では「夫レ無智ノ俗ニテ候ヘトモ」(録外2巻19丁=前掲『縮刷 録内・録外』1785頁)。なお高祖23巻30丁、縮遺1620頁は「是」。

弥三郎について
日蓮遺文の目録の中には、昭和定本所収の本満寺録外御書目次の十二巻十一通の項に「二五三 彌三郎殿御返事 私云鎌倉ノ住人也」(定2786頁)とある。これは原典の本文「弥三郎殿御返事」の左脇にも注記されている(前掲『本満寺御書下』91頁参照)。「私云」と断るあたり慎重であるが、この注記者は誰なのか。遺文辞典歴史篇1059頁(高木豊)によれば、昭和定本に載せたこの目録は日成によるもの(1766年正月)の翻刻ではなく、昭和定本収録のため編纂委員会が新たに作成したものとのこと。同目録にある注記は三系統あるようで誰のものかは判別しかねる。原典に当たると、本満寺録外12巻の表紙に「録外第十二冊十一通 日重」(前掲『本満寺御書下』84頁)とあるが、本文の書写がすべて日重筆によるものではなく分担されていて、当該注記は他の日重筆の箇所と比べると同筆ではなさそうである。日重、本満寺11世・一如院。■

略記
御書:新編日蓮大聖人御書全集(創価学会版)
定または昭和定本:昭和定本日蓮聖人遺文(立正大学日蓮教学研究所編)
遺文辞典歴史篇:日蓮聖人遺文辞典歴史篇(立正大学日蓮教学研究所編)
高祖:高祖遺文録(日明・小川泰堂編)、大本
縮遺:日蓮聖人御遺文(=縮刷遺文、加藤文雅編、本間解海・稲田海素対校、霊艮閣版)