七円玉の読書記録

Researching on Nichiren, the Buddhist teacher in medieval Japan. Twitter @taki_s555

日蓮「開目抄」:日乾による真蹟対校本の翻刻⑥

今回の範囲のハイライトは「本因本果の法門」であるが、妙楽湛然「行布を存するが故に」以下の引用(57頁以下)から、現代の日蓮文集を研究対象とすることの価値について少々言及した。
始成正覚(52頁)については、大正蔵華厳経の用例を調べた。注を参照されたい。
久遠実成については、本抄の「無始の仏界」(59頁)と観心本尊抄にある「無始の古仏」との関連から、日蓮が久遠実成を九界即仏界・仏界即九界と解した意味を探求しているが、別稿を立てて後に論じる予定である。

(51)
せリ土トイ井機トイ井諸佛トイ井始トイ井何事ニツケテカ
大法ヲ秘給ヘキサレハ文ニハ顕現自在力為説
*1*2等云云一部六十ハ一字一点*3モナク
ナリヘハ如意寳珠ハ一珠モ無量珠モ共*4ニ同一
珠モ万宝ヲ尽*5テ雨*6万珠モ万宝ヲ*7カコトシ芲
ハ一字モ万字モ但同事ナルヘシ心佛及衆生ノ文ハ
宗ノ肝心ナルノミナラス法相三真言天台ノ
(52)
肝要トコソ申等䄇*8イミシキ𢓦ニ何事
ヲカ隠*9ヘキナレトモ二乗闡不成佛トトカレシハ
珠ノキストミユル上三𠙚マテ始成正覚*10トナノラ
せ給テ乆遠實成壽量品ヲ説カクサせ給キ珠ノ
破ト月ニ雲ノカヽレ*11ルト日ノカコトシ不思議
ナリシコトナリ阿方等般𠰥大日等ハ佛説
ナレハイミジ*12キ事ナレトモ芲厳経ニタイスレハイウニカイ
(53)
ナシ彼ニ秘せンコト等ノ々ニトカルヘカラスサレハ
*13含経云初成道等云云大集云如來
成道始十六年等云云淨名云始㘴*14佛樹
力降*15魔等云云大日云我昔㘴道
䓁云云般𠰥*16仁王云二十九年等云云
等ハ言ニタラス只耳目ヲヲトロカス事ハ无量義
厳経ノ唯心法方等般𠰥ノ海印三昧混
(54)*197頁
同無二等ノ大法ヲカキアケテ或未顕真
實或歴劫修行等下䄇ノ𢓦ニ我先道
樹下端㘴六年得成阿耨多羅三藐三
ト初成道ノ華厳経ノ始成ノ文ニ同せラレシ
不思議ト打思トコロニハ法芲ノ序分ナレハ正
宗ノ事ヲハイワスモアルヘシ法芲ノ正*17開三
廣開三ノ𢓦唯佛與*18佛乃䏻究諸法實
(55)
相等丗法久後*19等正直捨方
便䓁多寳佛迹門八品ヲ指テ皆是真實ト證明せラレ
シニ何事ヲカヘキナレトモ久遠壽量ヲハ秘せサせ
給テ我始㘴道観樹亦行等云云最第一ノ
大不思議ナリサレハ弥勒薩涌出品ニ四十
年ノ未見今見ノ大菩ヲ佛尓乃教化之令初
道心等トトカせ給シヲ云如來為太子
(56)
粎宮去伽耶城不遠㘴得成阿
耨多羅三藐三菩是已來始四十
云何於此少時大作佛事等云云教主
尊此等ノヲ晴サンカタメニ壽量品ヲトカントシテ尓
前迹門ノキヽヲ举*20云一切丗間天人及阿脩
羅皆謂今粎牟尼佛出粎𫞕宮去伽耶
不遠㘴得阿耨多羅三藐三菩
(57)
云云正此疑答云然男子我實成佛已來
無量無𨕙百千万億那由他劫等云云芲
乃至般𠰥大日等ハ二乗作佛ヲノミ
ナラス久遠實成ヲ説カクサせ給ヘリ等ノ々ニ
二ノアリ一ニハ存行布故仍未開権*21迹門ノ一念
三千ヲカクせリ二ニハ言始成故曽未發迹*22本門
久遠ヲカクせリ䓁ノ二ノ大法ハ一代ノ綱一切
(58)
心髄*23ナリ*24迹門方便品ハ一念三千二乗作佛ヲ説テ
尒前*25二種ノ一ヲ脱タリシカリトイエトモイマタ發迹
顕本せサレハマコトノ一念三千モアラワレス二乗作佛モ
定ス水中ノ月ヲ見ルカコトシ根ナシ草ノ波
上ニ浮ルニニタリ本門ニイタリテ始成正覚ヲヤ
フレハ四教ノ果ヲヤフル四教ノ果ヲヤフレハ四教ノ因ヤフレ
ヌ尓前迹門ノ十ノ因果ヲ打ヤフテ本門十
(59)*198頁
ノ因果ヲトキ顕ス即本因本果ノ法門ナリ九
モ無始ノ佛ニ具佛モ无始ノ九ニ備*26テ真
㸦具百千如一念三千ナルヘシカウテ
カヘリミレハ芲厳経ノ台*27上十方阿含経ノ小釈*28
方等般𠰥ノ金光明ノ阿弥陁経ノ大日䓁ノ権
佛等ハ壽量佛ノ天月シハラク影ヲ大小ノ器ニシテ*29浮給ヲ
諸宗ノ学者等近ハ自宗ニ迷遠ハ法芲ノ壽量品ヲ
(60)
シラス水中ノ月ニ實月ノ想ヲナシ或ハ入テ取トヲモヒ
或ハ縄ヲツケテツナキトヽメントス天台云不識
天月但観池月等云云日蓮*30案云二乗作佛
スラ尓前ツヨニヲホユ乆遠實成ハ又ニルヘクモナキ
尒前ツリナリ其ノ故ハ尓前法芲相對スルニ尓前
コワキ上尓前ノミナラス迹門十四品一向ニ尓前ニ
同ス本門十四品モ出壽量ノ二品ヲ除テハ皆始■

つづく

*1:囗+負の異体字。グリフウィキにはない。≒圓。=円

*2:原典は「顯現自在力 演説圓滿經」(六十華厳巻第五十五入法界品、大正No.278, 9巻750頁b段8行)であり大体の遺文集では「為」が「演」に校訂されている。

*3:㸃の左上が里の異体字。u3e03-var-001。=点

*4:異体字。u5171-itaiji-002

*5:zihai-130209とも異なる。u2ff1-u2ffb-u807f-u4e37-u76bf

*6:異体字。u96e8-t07

*7:字体は判読難。zihai-130209か。

*8:ただしネ+口+玉。

*9:旁がヨ+ヨ+心である異体字。jmj-058974

*10:同抄で「芲厳経ノ三𠙚ノ始成正覚」(135頁、御書全集213頁)と再説される。三処の始成正覚については、大石寺26世・日寛が「開目抄愚記」で妙楽湛然『法華文句記』の文を挙げている(『日寛上人文段集』阿部日顕監修、創価学会教学部編、聖教新聞社、94頁)。すなわち「一經之内三處明文。即世主品初名號品初。十定品初。皆云於菩提場始成正覺」(『法華文句記』巻第九、釈涌出品、大正No.1719, 34巻325頁b段1行-3行)。今ここに新訳八十華厳をSATで調べた。①巻第一、世主妙厳品第一之一「如是我聞。一時佛在摩竭提國。阿蘭若法菩提場中。始成正覺」(大正No.279, 10巻1頁b段27行-28行)。②巻第十二、如来名号品第七「爾時世尊。在摩竭提國阿蘭若法菩提場中。始成正覺」(大正No.279, 10巻57頁c段23行-24行)。③巻第四十、十定品第二十七之一「爾時世尊。在摩竭提國。阿蘭若法菩提場中。始成正覺」(大正No.279, 10巻211頁a段6行-7行)。さて「始成正覚」という語はもとは華厳経に登場し、術語(テクニカルターム)というより経文であった。歴史学に例えれば史料用語と言えようか。天台・日蓮教学では久遠実成との対比で術語として重視されるが、現代の一般的な仏教辞典、例えば『岩波仏教辞典 第二版』や『新版 仏教学辞典』(法蔵館)では見出し語に立っていない。

*11:○の右脇にレ。

*12:濁点がある。日蓮による「いみじ」の用例として「撰時抄」の真蹟を調べたら「いみしか里け里」(八十一紙)、「いみしき」(八十四紙)の二例があり、当然ながら濁点はない。これまで仮名に濁点がないのにここだけあるのは不審である。

*13:親文字に軽く斜線があり右脇に「諸」とある。録内御書(宝暦修補本)、高祖遺文録、御書全集、平成校定は「雑」。縮刷遺文、昭和定本は「諸」。縮刷遺文が高祖遺文録から表記を変更したことが確認できる。意味としては「諸」阿含経でも問題ないが、御書全集の検索では用例が一つもヒットしなかった。兜木は『日蓮文集』で「もろもろの」とルビを振っている。

*14:=坐

*15:保留。

*16:次下「仁王般𠰥」であったところを「般𠰥」を削除し「仁王」の直前に○を入れ右脇に「般𠰥」。日存本も「般若仁王」(平成校定602頁参照)。

*17:=略

*18:=与

*19:直後の「要當説真實」を削除。

*20:=挙

*21:直後の「トテ」が削除されているが、漢文であることから「存行布故仍未開権」が湛然『法華玄義釈籤』からの引用・伝聞(大正No.1717, 33巻950頁b段2行)であると判断できる。日存本には「とて」があるとのこと(平成校定603頁参照)。一般向けの遺文集では、引用に「」を用いて読みやすくしてあるのが通例だが、御書全集では「」がなく、その現代語訳である前掲『現代語訳 開目抄(上)』では用いられ出典も注記されている。『日蓮文集』、平成新編日蓮大聖人御書、平成新修日蓮聖人遺文集には「」がある。後出の「言始成故曽未發迹」も同様。

*22:「尚」を削除し右脇に「曽」。ここも直後の「トテ」を削除。日存本は「言始成故とて」。『釈籤』、大正蔵は「言始成故。未發迹」(大正No.1717, 33巻950頁b段2行-3行)。今しがた挙げた遺文集の中では、御書全集は「尚」を用い、底本の縮刷遺文「曽」を校訂している。高祖遺文録は「尚」だから縮刷遺文による校訂が確認できる。引用として「」を用いるなら、上記一般向け遺文集では「尚」に校訂してよいと思われるが如何だろうか。

*23:髓の骨の上部が内である異体字。グリフウィキ、異体字解読字典ともにない。

*24:ここは地の文ではあるが、『釈籤』では「尚未發迹」に続き「此之二義。文意之綱骨。教法之心髓」(大正No.1717, 33巻950頁b段3行-4行)とあり、酷似している。これは既に兜木正亨が指摘している(『日本古典文学大系82 親鸞日蓮集』岩波書店、347頁、ただし同氏による岩波文庫日蓮文集』の注では言及されない)。日蓮が『釈籤』の文を借りて書いたと見てよいが、当時は原典が手元になかったか、要文集を頼るしかなかったのかもしれない。しかし、あえて地の文としたのかもしれず、そうだとすれば「存行布故仍未開権」以下はあながち引用と言い切れない。「」の有無は些細に見えるが、御書全集にはない点が私には疑問だった。単なる校訂不足と見なせなくもないが、編纂者が信仰的見地から開目抄前半の最重要文の一つとして、一連の文章を日蓮の地の文と見なして「」を入れない判断をしたのかと推測してみた。次いでながら問題提起となるが、上記の議論のように「」の有無一つとってみても、翻刻とは編纂者の解釈に他ならない。約物、特に句読点、カギ括弧、中黒、割注等(、。・「」『』()〈〉)の置き方一つで読み方が変わるのは言うまでもないが、御書全集以降の現代の日蓮文集は、高祖遺文録・縮刷遺文当時より使用する約物が増えた分、解釈の正確さが要求される結果となったと言えないか。また編纂は学術的知見を基礎としながらも、一般人向けに読みやすい表記への配慮や聖典としての信仰的解釈が入り込み、さらに常用漢字や印刷文字コード、流通性といった出版文化が大きく関わっていることが了解されよう。その意味では、現代の日蓮文集は、文献学的にまた一つの研究対象となり得、現在の出版文化の中で今後その重要性が増すと思われる。

*25:頻出だが、月部が日と判別が難しい。以後「前」としておき、作業を終えた時点で再整理したい。

*26:≒俻。zihai-008008。=備

*27:異体字。グリフウィキにはないが、異体字解読字典には俗字として収録される。≒臺。=台

*28:ママ

*29:○の右脇に「ニシテ」。

*30:草冠が四画のほう。