七円玉の読書記録

Researching on Nichiren, the Buddhist teacher in medieval Japan. Twitter @taki_s555

「抄」と「鈔」について――日蓮書簡の題名覚書

日蓮の書簡・著作の題名には「○○抄」と名づけられたものが多い。これは「撰時抄」等、日蓮自身が真蹟で付けた場合と、「如説修行抄」や「兄弟抄」など写本によるか後世に読み習わされてきた場合とがあり、後者が圧倒的に多い。この「抄」という字について素朴に気になったことを整理してみた。

抄か鈔か
「抄」は常用漢字であり、抜き書きとか一部分、そこから解釈書、注釈書といった意味がある。現代では「抄訳」(一部分を翻訳すること)という語が知られているだろう。新編日蓮大聖人御書全集(創価学会版)では一部を除き「抄」で統一されている。
対して昭和定本日蓮聖人遺文(立正大学日蓮教学研究所編)では、この「抄」の字のほとんどに「鈔」が用いられている。「鈔」は抄とは別の字、つまり異体字あるいは新字・旧字の関係でもないから、即座に置き換えられるべきものではない。また鈔は表外漢字字体表の印刷標準字体であり、常用漢字ではない。しかし字義としては抄と同じである。
とはいえ、先に触れた真蹟でそう書かれた撰時抄、また「観心本尊抄」「法華取要抄」、さらに目録から真蹟で題名が書かれたことがわかる「報恩抄」(定2747頁)等については、日蓮自身が「抄」を用いており、これには昭和定本も自覚的であるようで、真蹟で用いられた書については「抄」にして使い分けているようである。ちなみに真蹟は現存しないが、「開目抄」は昭和定本でも「開目抄」である。「立正観抄」は写本しかないが、自題とされているからだろうか(遺文辞典歴史篇1181頁)、昭和定本でも「抄」としている。
そしてここで使い分ける必要あるの? という素朴な疑問が湧いてくる。現代の活字としては「抄」のほうが圧倒的に定着しており、入力変換の際も「鈔」はまずすぐには出てこないだろうから、特別な理由がなければ、あえて「鈔」を使う必要はなく「抄」に統一してよいのではないかと思う。また題名・本文ともに昭和定本では、旧字体が多用されているが、一般書のみならず学術論文にも倣って、新字に改められるべきだと思う。(もちろん字体・書体が研究対象になり得ることは承知している)
御書も昭和定本も縮刷遺文を底本としているから、「鈔」が混ざるのはわからないわけではないが、縮刷遺文では上記真蹟で「抄」が用いられた書、例えば「撰時抄」も「撰時鈔」(同書目次14頁)である。こう調べると、昭和定本は縮刷遺文の「鈔」を踏襲しながら真蹟で「抄」とわかるものを限定して「抄」に置き換えたのではないかという編纂者の意図が垣間見れそうだが推測の域を出ない。

抄か書か
ちなみに開目抄については、身延久遠寺にかつてあった真蹟(明治8年に焼失)では、本文とは別に表紙に「開目」の二字が書かれていたと伝えられている。すなわち、日乾「身延山久遠寺御霊宝記録」に「開目抄 六十五紙 此外表紙開目二字有」(定2745頁)とある。日蓮自身が開目「抄」と呼んだのか疑問が残る。しかし真蹟が現存しない「種種御振舞御書」には「開目抄と申す文二巻造りたり」(御書919頁、定975頁も「抄」)という記載が確かにある。
また直弟子日興による「富士一跡門徒存知事」の日誉写本に記された「開目抄」(御書1604、1607頁、日蓮宗宗学全書・日蓮正宗歴代法主全書・鎌倉遺文も同じ「抄」)については、一つは「開目書」(興全306頁)となっていて、もう一カ所では「開目抄」(興全311頁)である(興全収録の同書は、大石寺蔵日誉写本の東京大学歴史編纂所蔵影写本を底本にして改めて解読している)。しかし同書記載の他の日蓮書簡については「下山抄」「四信五品抄」等「抄」が用いられている(興全307頁)。
また富木常忍(日常)が保管していた日蓮自筆文書の目録「常修院本尊聖教事(常師目録)」には「開目抄」(定2731頁)等とある。以前書いた四信五品抄(昭和定本は四信五品鈔)については、後代の目録によっては四信五品「抄」のみならず「四信五品書」(定2818、2839頁)と呼ばれていた。高祖22巻では目次に「與富木氏書 四信五品書」とある。高祖の縮刷版の意で縮刷遺文と呼ばれる日蓮聖人御遺文で「四信五品鈔」と記載されるに至り、現代では「四信五品抄(鈔)」という題名が定着したと推測される。
このように見ていくと、現在「○○抄」と呼ばれる書簡も、以前は必ずしもそう呼び習わしていなかったことが示唆される。

大変些末なことである。しかし、日蓮について一般大衆に広く周知するにあたり、あえて障害となるような字体を使う必要はないし、親しみやすくする努力は大切なのではないかという問題提起として書き残してみた。■

抄・鈔の字体や意味については『新漢語林 第二版』(大修館書店)を参照した
略記
御書:新編日蓮大聖人御書全集(創価学会版)
定または昭和定本:昭和定本日蓮聖人遺文(立正大学日蓮教学研究所編)
遺文辞典歴史篇:日蓮聖人遺文辞典歴史篇(立正大学日蓮教学研究所編)
興全:日興上人全集(興風談所)
高祖:高祖遺文録(日明・小川泰堂編)
縮刷遺文:日蓮聖人御遺文(加藤文雅編、本間解海・稲田海素対校、霊艮閣版)