七円玉の読書記録

Researching on Nichiren, the Buddhist teacher in medieval Japan. Twitter @taki_s555

上原專祿『死者・生者ー日蓮認識への発想と視点』(未来社)

歴史学者上原専禄(1899-1975)という人物については、彼の著作『死者・生者ー日蓮認識への発想と視点』を読むまでは知りませんでした。門下には阿部謹也もいるのですね。

上原は1969年に自分の妻を病で亡くしますが、それは医師の誤診どころか不正や非道によるものだったことを克明に記していきます。

「患者放棄だ」、「生命の否定だ」という批判は、心のやましいものにとっては、手痛い非難であるにちがいない。だから、そういう非難に値いする非道な連中は、やっきになって批判から身をかわそうとするだろう。そして、かわしきれぬとさとったとき、連中は狂気のごとくに批判者に逆襲してくるだろう。「生命の蔑視」を非難し、「生命の尊厳」を説く倫理や宗教が、いかにもひよわでたよりにならぬのは、逆襲をさらに切りかえして連中を圧倒し去る姿勢と方法が、今日の倫理と宗教に欠けているからに他ならないだろう。(上原專祿『死者・生者ー日蓮認識への発想と視点』未来社、409頁)  

ここでいう「連中」とは、一部のやくざな医者や弁護士、政治家をはじめ、既得権益を持つ者、権力を持つ者といえます。かといって文脈は、庶民ー権力者の対立構図というわけでもありません。

「圧倒」とは言えないにしても、「逆襲を切りかえして連中を倒し去る姿勢と方法」は、この十年で随分と発達しました。セクハラ、パワハラ、DV、モラハラ、性暴力、LGBTや障害者への差別、いじめ問題、ヘイトスピーチブラック企業、ブラック教育ーー。これらに対し、社会的に許されないという世論が形成され、制度的にもそれを予防・対処しようとする動きが加速してきました。
そしてこの動きは、当事者や共闘する人たち(社会活動家など)、広く言えば、民衆の犠牲と痛み、それらを含む集合知SNS含む)から湧き上がってきたのであり、逆に倫理と宗教を謳う者が、その形成にどこまで貢献してきたかとなると、疑問を持つことが少なくありません。
いま宗教が、一党一派に拘る内輪な振る舞いや教条主義に陥りがちな癖と、上に挙げた人権に基づく普遍的な課題解決のための連帯との狭間で揉まれていることは確かでしょう。
(追記:以上は宗教に関して単に悲観的な見方を示したいのではありません。むしろ宗教は人間が作り出したものであり、何が人間社会にとって必要で大切な宗教かを選びとる権利をもつ主体は、民衆に他ならない、ということであり、これが私の宗教に対する基本的な理解の仕方ですし、「人を救うのは宗教ではなく人間である」というのが私の信仰です)
しかし本書を読めば、上原が傾倒していた日蓮の生涯は、まさしく「逆襲をさらに切りかえして連中を圧倒し去る姿勢と方法」であったと痛感させられます。

上原の日蓮信仰・研究については、日蓮研究の最新の成果を収めた『シリーズ日蓮』(春秋社)でも言及されており、再評価の声は今後も高まっていくと思います。

特に引用した前掲書にある「誓願論ーー日蓮における「誓願」の意識ーー」は何度も読み返したい。■

死者・生者―日蓮認識への発想と視点 (1974年)

死者・生者―日蓮認識への発想と視点 (1974年)

 
現代世界と日蓮 (シリーズ日蓮)

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