七円玉の読書記録

Researching on Nichiren, the Buddhist teacher in medieval Japan. Twitter @taki_s555

下田正弘『パリニッバーナ 終わりからの始まり』(NHK出版):戒律は“健康的な生活習慣”

仏教聖典形成史を専門とする下田正弘氏の『パリニッバーナ 終わりからの始まり』(NHK出版、2007年初版)は一般人向けの100ページ超の短い書ですが、絶版でもあり、あまり知られていないようです。事あるごとに読み返したい一冊なので、メモしておきました。

仏教では一般に戒定慧の三学を実践し体得することを基本としますが、戒について。

仏教は、禅定とともに、智慧と戒律を重視している点に特徴があります。禅定とは、古代インドに伝わるヨーガ、瞑想法であり、これはおおかれすくなかれインドの他宗教においても方法として共通しています。ヨーガ、瞑想は、意識を改革するおおきな力をもった技術であり、うまくもちいるなら、だれしもが意識変革を遂げることが可能です。

ところがそれだけに危険をともないます。問題は、ヨーガによって意識変革をして、そののちに、いったいいかなる自分になればよいのか、という点にあります。このときに、智慧をともなった明確な見とおしを有し、同時に戒律にもとづき鍛えられた社会性を身につけていなければ、変革した自己をいかにこの世界に適合させてゆくかという段階で、大問題を生み出してしまいかねないのです。

ご存じのように、ヨーガの技術を有する集団が想像を超えた反社会的行為に及ぶ〈オウム真理教事件〉がありました。これは透徹した智慧と鍛えられた社会性とがともに欠如したため、瞑想という技術によって変革した意識の着地点が見えなくなって起きた事件であると、わたくしは考えています。仏教が歴史のなかをいかに伝承されてきたか、その事実をしっかりと観察するなら、〈戒〉と〈慧〉の欠如した瞑想集団がいかに危険となるかは、あらかじめ注意を払っておかねばならないことでした。伝統が古びて思え、あたらしいものに目を奪われてしまいがちな現代のわたくしたちの目には映りにくい事実でもありますから、いっそうの注意が必要です。

(下田正弘『パリニッバーナ 終わりからの始まり』(シリーズ仏典のエッセンス)、NHK出版、67-68頁)

「戒」の原語はサンスクリット語のシーラで、「習慣」を意味します。身に着けるべき正しい行動様式です(馬場紀寿『初期仏教 ブッダの思想をたどる』岩波新書、115頁参照)。五戒や八斎戒などさまざまありますが、四諦のうちの道諦にあたる八正道のうちでは、正語(正しいことばづかい)、正業(正しい行い)、正命(正しい生活)の三つに相当するようです(下田前掲書、66頁参照、中阿含経)。

この生活習慣、行動様式という戒は、上の引用からも、侮れないように思います。もっと平たく言えば、健康的な生活習慣となるでしょうし、そのための心と身体のケアが、禅定の土台ともいえるでしょう。

(6世紀中国の天台智顗の『摩訶止観』には、本格的な止観の修行の準備段階として二十五法を設けていますが、これも心身を整える項目が多いです。ただし、一口に戒と言っても、語の意味合いの変遷がありますから、ここでは原語にとどめておきます)

何をするにも体が資本、なんて言い方をしますが、ストレス社会の現代で、仏教における戒を原義から学びなおすことは、心を変えることにばかり注目しがちな中、素朴な生活感覚、身体感覚の重要性を再認識させられました。それで身も蓋もないのですが、適度に運動したり、睡眠時間をきちんと確保したり、部屋を掃除したり、時にはおいしもの食べたり、大事な人との時間を楽しむ、といった健康的な生活を維持することが、案外、仏道だなと思った次第です。

なんでこんなことを言うかといえば、上記引用で太字としたところは、精神疾患精神障害、また難病のため長期に治療と向き合う必要のある人たちにとって、瞑想とそれによる智慧の着地点としての身体感覚、生活習慣を用意する戒律が侮れないという、一つの問題提起と読み替えられるからです。これはまたどこかでガチで書きたいと思いますが、この話は、例えば法華系教団における「うつの人がお題目(=禅定とみなせる)を唱えていいの?」という問題にヒントをくれます。 

さて、学者が専門分野を一般人向けに書いた本はたくさんありますが、宗派的な内容が入りすぎたり、かといって平易にした挙句、自己啓発に堕すような言葉遣いとなってしまうなど、玉石混交です。下田氏による本書も、学術的な研究としては評価の対象とはならないであろう、著者が研究を続ける中で持った問題意識や疑問、または推測、確信が披歴されています(もちろんそこには著者の緻密な研究の蓄積による説得力もあります)。それは仮説として研究を進める原動力となるのでしょうが、本書は、その洞察の深さが際立っている。

宗学・教学と、学術研究との間で仏教(における体験)を考える、そのうまい距離の取り方は、他には平岡聡氏の著作にも言えそうですが、見習いたいものです。仏教を信ずるものにとっては、ドグマに陥らないためとか、他宗教を信ずる人が圧倒的マジョリティのこの世界で、自分の立ち位置を確認する言葉を獲得するためなのかもしれません。

仏教の存在意義は人生の指針となって日常生活に活かされることにあり、仏教書の存在意義はこの目的にそってひとを啓発することであると、わたくしは考えています。ここに第一に要求されるのは著者独自の体験にもとづく仏教理解であって、テクストの原義にそった忠実な叙述ではありません。しかしそんな場合にでも、個々の体験を照合するための仏教のたしかな知識や枠組みがあるなら、各自の体験に一種の保証が与えられますし、その体験が二千五百年におよぶ仏教の歴史全体といかなる関係を持つのかを知るなら、その経験にひとつの普遍性が与えられます。本書は、個人の体験にもとづいた仏教理解を開陳するものではありませんが、そのいとなみを照らし支えるささやかな手引書となることを目指しています。

(下田前掲書、7頁、まえがき)

パリニッバーナ―終わりからの始まり (シリーズ仏典のエッセンス)

パリニッバーナ―終わりからの始まり (シリーズ仏典のエッセンス)