七円玉の読書記録

Researching on Nichiren, the Buddhist teacher in medieval Japan. Twitter @taki_s555

船山徹『仏教の聖者 史実と願望の記録』(臨川書店):覚っていいの?

船山徹『仏教の聖者 史実と願望の記録』(臨川書店、2019年)を読了。

仏教において「私は覚った」と周りに触れ回る人はいないだろう。仏弟子がそう言えば、「おいおいなに言っちゃってるんだ、お前は増上慢(覚っていないのに覚っていると思いあがる)だ」と叩かれるかドン引きされる。逆にお師匠さんにそれを問えば、「いや、わしの修行はまだまだだ、死ぬまで続くのだ」と答えるだろう。それは謙遜というよりマジでそう思っているし、それが理想の修行者の在り方とか境地であると思っているだろう。あるいはどこかの開祖さまが「わしは覚ったんじゃ」といえば、逆に胡散臭いな、となること請け合いだ。

あるいは、確かに覚った。しかし、その上でさらに上位の覚りがあるんじゃよ、覚りaに達したら、もっと洗練された覚りa’がある、とか。aは真実の覚りではなくa’、a’’と段階的に優れた境地があるする立場と、aもa’もa’’も同じ覚りだけど、現実にどう働くか(他者に対する救済力とか)で違いが生まれるとか、いろんな主張があるだろう。

覚っても修行は終わらないこと

私は、仏教が覚り=仏の境地はあるとしながらも、(覚りを得るための、あるいは覚ってからも)修行は終わらないというところに着目してみた。(ここでいう修行とは、本書が大乗仏教における修行論を扱っているから、自利のみならず利他、菩薩行を中心とする)

「修行に終わりを設けない」ことは、①覚りの境地に達するのがいかに難しいかを強調する、②無限の向上を意味する、といったメッセージを発信できる。①はマイナスなようで修行者に安易な期待・効能や増上慢を戒め謙虚ならしめる意味ではプラスに働く。②がプラスにしたって、どちらにしても人間、レベルアップしてる手ごたえがあったほうが修行しやすいし、なければないで、永遠であるがゆえに終わりなきことに虚無感を覚えるかもしれない。(一昔前のRPGに比べ、最近のゲームは、物理攻撃・防御、魔法同、NS・AS・PS、覚醒値、進化等々と、キャラステータスが細部にわたって数値化されることで、いわゆる「レベル上げ」の仕組みが張り巡らされていて、それがゴールドとかクリスタルとかの報酬と結びついて、さらなるレベル上げへといざなう。そして教団、サンガをギルドに喩えようとしてみたくなる)

ふざけた喩え方にみえるかもしれないが、大好きな漫画の最新刊を即刻買った。早く読みたいけど、読み終わるのは先延ばしにしてゆーっくり読みたい。ああ至福のひと時だけど、ページをめくるごとにああ読み終わっちゃうのかと悲しくなるという、アンビバレントな気持ちが生まれる。これも「始まりがあれば終わりがある」からこそ生まれる感情ではある。そして大好きなら、その漫画を何回でも読めるのである。それがゲームなら違う分岐ルートをすべてクリアしたくなるのである。

菩薩と仏の関係(踏み込めば誓願と覚りの関係、後述)を修行という観点からみるとこんな感じだ、というと罰当たりとなりますよね。

以前友人と「仏ってなんやねん、仏の境地てどんな感じ?仏と菩薩て何が違うの?覚ってからも菩薩行を続けるんだよね、仏と同時に菩薩?」とか話し合ったのですが、本書はこの問題にヒントをくださりました。

初地の二重性に着目

さて本書では、大乗仏教の論釈で有名な龍樹(150-250頃)の到達した境地が初地であり、同じくインドの大論師として名高い無著(4-5世紀)も初地、その弟の世親(同)は初地以前の準備段階にしか到達しておらず、中国南北朝時代の南岳大師慧思(515-577)は自らを十信鉄輪位にすぎないと述べ、その弟子である天台宗の開祖・天台大師智顗(538-597)はさらに低い五品弟子位と自覚していたと伝えられていたことが記されています。こうした仏教史に名高い聖者でさえ生前に低い境地にとどまっているのはなぜ?というのが、本書の問題意識です。いずれにしても「私は覚った、仏となった」とは言わない。(「笑ってはいけない」ならぬ「覚ってはいけない」、いま書いてみただけです)

著者は仏典に基づいて、インドにおける十地は、菩薩の修行を開始するスタート地点であり、究極の境地でも修行の成果でもない。しかし中国仏教では聖者観が転換され、五十二位(十信・十住・十行・十廻向・十地・等覚・妙覚)という長大な修行段階のなかで初地の位置づけが変化し、初地はスタートではなく、この世における修行の成果でありゴールである。さらに将来への修行の長大なスタートでもある。こう言われています。

詳しくは最終章はじめ本書をお読みいただくとして、メモしたいのは以下のところ。

(引用者注=上記の意味でのスタートにしてかつゴールであるという)初地の二重性は、菩薩の修行が矛盾に満ちていることを意味するのではない。むしろ菩薩の修行それ自体の特徴を先鋭に示す典型的例である。大乗の菩薩は、一切の衆生(生きもの)を救い、悟りの世界に渡すことを誓うこと――菩薩の誓願、菩薩の発願――から修行を開始する。この誓願が真に現実的な効果を発揮するには、誓願を発した時に衆生救済をこの上なく真摯に受け止めていることにもなる。そして本心であるならば、その菩薩は理想を出発点において既に体現していることにもなる。それ故、誓願の内実は菩薩の修行のスタートにして且つゴールを示している。この構造が凝縮され顕著になる段階として「初地」の二重性の意味を理解すべきである。(船山徹『仏教の聖者 史実と願望の記録(京大人文研東方学叢書8)』(臨川書店、2019年、180頁)

この最終章を読んで、冒頭のようなことを考えたのでした。

私は大乗仏教の菩薩の特徴を二つないし三つだと捉えています。①誓願を起こす、②上求菩提=自らが菩提・覚りを求めて修行に励む、③下化衆生=他者と利益を分かち合う、と。①に支えられた②と③が菩薩行である、と(『岩波仏教辞典 第二版』922頁等を参照)。そして、これって仏の振る舞いと何が違うの?と思うわけです。菩薩の初地の二重性の淡いにすでに仏の境地があるということでしょうか。

これは「私は覚っているから、あなたを助けます」という態度は価値を生まない、現実に苦悩する人々を目の当たりにしたとき、そんな物言いや姿が無力であるこを、仏教者はよく認識していたことを物語っているといえないでしょうか。となれば、裏を返せば「私は覚ってもいないしよくわかってないから、利他などできない」という態度にも批判を加えていることとなります。

覚りと衆生救済のあわい

仏教は初期経典では覚りを目指す宗教でしたが、大乗経典では浄土教のように人間を超越した仏による恩寵のような救済が説かれました。(ブッダ=覚った人という語は、古代インドで使われていた普通名詞であり、初期仏教ないし原始仏教でも複数形として用いられていることから、釈尊一人のみならずみな覚りを得ればブッダになれた、というのは並川孝儀氏の著作で学びました。並川孝儀『ブッダたちの仏教』ちくま新書、16頁以下など参照)大乗経典は、こうした「覚り型の宗教」と「救い型の宗教」との狭間を揺れ動く歴史であるように思います。覚ってからでないと衆生を救う資格も力もないとするのではなく、衆生を救うこと自体が覚りを得るための修行である。救う側と救われる側を固定しない、そもそも自分が覚るという仏教の本義からすれば、救う側とか救われる側という議論がナンセンスである、しかし、そういう経典がある。そもそも釈尊は救済者ではなくて先覚者であり、それが初期経典においても救済主とされていった、という解釈が妥当なら、そもそも仏とは先覚者とか先駆者とか、それ故の指導者(=教主)という意味合いであり、そこから見れば阿弥陀仏って同じ仏なんかいなという素朴な疑問が生まれるのも無理ないと思います。想像たくましくすれば、6世紀頃の中国の修行者が阿含経典と大乗経典を読み比べて、おや?と思う人もいたでしょうか。「救う」というのも大それた感じで利他というとざっくりしてて、私的には修行で得た喜びをシェア、分かち合うという表現のほうがしっくりきます。ま、こうやってどこまでも理屈でなく感情的な喩えに終始してしまうのですが。しかし仏教学が生身の人間が実践する仏の教えを研究対象するのなら、冒頭にも書いたような修行者の感情(他にも「お前が言うな」とか「だから何?」とか)に無頓着であっていいのか。そういうところに「史実と願望の記録」と副題を打って本書がメスを入れてくれている。また仏教書を学ぶと教相に目が行きがちでしたが、修行したらどうなるの?修行した人たちはどう見られてたの?という(後世の伝承とか神格化と関わる)意味での修行論と併せて考えることを、再確認させてくれました。当たり前といえば当たり前、仏教は思弁に終始するわけでなく、生活や社会にコミットしていく修行ですので。さらに興味深いことに、中国唐代の玄奘門下においては、仮に自らは覚りに達していなくても、覚りとはどんな体験か、またそのための修行はどのようなものかを正しき記述することは可能であったことを示す文献として、慈恩大師基(632-682)やその弟子の慧沼の論書を挙げられています(本書27頁)。

その他雑感

著者は慧皎『高僧伝』(岩波文庫、全4冊)の訳者の一人でもあります。本書のように翻訳に携わる人の本には、テクストを丹念に読み込み、史料批判、史料操作をしているからか、その膨大な研究に裏打ちされた独自の鋭い視点があり、大いに敬服します。(前回、下田氏の著作をあげましたが、氏は大正新脩大蔵経テキストデータベース(SAT)を編纂されています)

個人的には、菩薩の修行のランクとして知られる五十二位が、華厳経ではさまざまな修行をリストとして挙げたにすぎず、順序立てていないこと、それが菩薩瓔珞本業経という偽経(=インドで仏陀が説いたという体裁で中国で編纂した偽作経典、本書201頁参照、ニセモノという意味ではない)によってランク付けされ、華厳経とは別の修行体系として整理されたことがわかっただけでも収穫でした(本書86頁参照)。(そういえば華厳経はなかなか現代語訳がないのはなぜだろう)

そしてともすれば五十二位といった修行の階梯を、即身成仏との対比で歴劫修行(成仏までにものすごく長い時間をかけて修行する)として否定的に捉えがちでした。しかしそんな安直なものではない。「単に情緒的な解釈に堕す恐れがある」(本書183頁)との警鐘は、仏教学からの応答としてのみならずテクストとじっくり向き合おうよとのメッセージにも受けとめました。

この点、まったく違う著者の本ですが、

学問には「肯定的に評価していれば事実誤認でもかまわない」という基準はありません。イメージの投影は「正しくない」という意味でいかなるものであれ批判されるのが学問の「流儀」です。(森山至貴『LGBTを読みとく』ちくま新書、2017年、30頁)

との指摘は鋭いと思いました。■

仏教の聖者――史実と願望の記録 (京大人文研東方学叢書)

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LGBTを読みとく: クィア・スタディーズ入門 (ちくま新書1242)

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