七円玉の読書記録

Researching on Nichiren, the Buddhist teacher in medieval Japan. Twitter @taki_s555

仏教における「時」の意味:メモ

時間としての縁起=因果、過去・現在・未来という三世、法華経における三千塵点劫、五百(千万億那由他阿僧祇)塵点劫=久遠という過去等、仏教で扱う「時」の例は枚挙に暇がない。
その意味合いは色々と整理が必要ではあるが、下田正弘氏の次の指摘は大変興味深い。

仏が教えを説いたのではなく、聞き手である弟子――この場合にはアーナンダ――が聞いたこととなっていること、そしてそのさい〈ある時〉ということばがつねに付帯していること、さらには説かれた場所が示されていること。これらは経典の形式を構成する要素なのですが、いずれも釈尊と弟子との〈出会い〉を特定するための要素にほかなりません。
注目しておきたいのは、ここでもちいられた〈時〉ということばの原語〈サマヤ〉が、原義として〈出会い〉や〈約束〉を意味する点です。通常、サンスクリット語において時間をあらわすことばは〈カーラ〉が使用されているにもかかわらず、経典の冒頭においてこのサマヤがもちいられていることは、仏教における出会いと時間の深い関係を示唆するように思えます。師と弟子の出会いにおいて師はみずからの過去を見出し、弟子は師にみずからの未来を見出し、両者の時が交錯することを、この本の第一章において確認しました。それはこのサマヤなることばにもそのまま反映されています。経典成立の基礎となる要素は、出会いにおける時の誕生なのです。
(下田正弘『パリニッバーナ 終わりからの始まり』NHK出版、118頁)

ここでいう〈サマヤ〉は、法華経鳩摩羅什による漢訳、妙法蓮華経では、序品第一の冒頭で「一時」(あるとき)として訳されている。その後、何度も登場する「爾時」(そのとき)には〈カーラ〉が使われている。

以前書いた「法華経に説かれる誓願と日蓮による継承」で私は、(大乗仏教における菩薩の)誓願は必ず誰かに対して結ぶ「約束」というかたちをとると述べた。法華経如来寿量品第十六における「久遠」という、ともすると過去=時間とされる概念と、「誓願」とが、ともに〈出会い〉〈約束〉という意味を伴っていることから、両者が主観的あるいは主体的な時間論の上でオーバーラップすることが了解される。久遠(元初)と誓願がどのような関係なのか、上記の引用を手掛かりに、さらに考察を深め、言語化していこうと思っている。■