七円玉の読書記録

Researching on Nichiren, the Buddhist teacher in medieval Japan. Twitter @taki_s555

大乗経典と紙の書物:読書メモ

私は大乗経典の成立論や起源説に関心があり、断続的に関連する論考を読んできたが、ここに読書メモを保存しておきたい。数年前のものだが、法華経を日々読誦する信仰の上でも大きなインスピレーションを得られそうで、事あるごとに見返していきたい。

○経典は物語の創作物であるから、経典に書かれている内容が、そのまま、それが書かれた時代状況を示しているとはかぎらない。それは根拠のない想定であって、そう言うためには、そのテクストが、書かれた時代を反映しているという証拠が、テクスト自身の外部(碑文など考古学的な物証)から得られなければならない。(グレゴリー・ショペンの研究)

○経文は、歴史的所産としてのテクスト、つまり「つくられた歴史を記したテクスト」ではない。むしろ、歴史的能産としてのテクスト、つまり「歴史をつくる力を持ったテクスト」である。経典を読み、経典をもとに実践する修行者が、自身を変え、社会を変えていく。(ジョナサン・ウォルターズの研究)

○ギルギットにおける経蔵の発見により、6~8世紀、法華経などの大乗経典が、根本説一切有部に帰属する僧院によって伝承されていたことが明らかになった。これにより、大乗経典を伝承する教団的主体が、これまでの学説のように部派仏教とは別の特定のグループを想定することはできなくなった。(ジェラール・フェスマンの研究)
 *以上三氏の研究については、下田正弘「初期大乗経典のあらたな理解に向けて――大乗仏教起源再考」(『シリーズ大乗仏教4』春秋社所収)を参照。

○初期経典とは、ブッダの言葉を記録、伝承するものだった。そして経典を注釈した論書とは、明確に区別されていた。
大乗経典は、釈尊の教えを伝承するにとどまらず、それを積極的に解釈し、その解釈も織り交ぜて、「仏説」としての経典がつくられていった。いわば、伝承と注釈が一体となってつくられた。
大乗経典は、明確に読者を意識して、物語の構成の練り上げてあり、舞台装置を用意し、表現技法にも工夫が見られる。読者は経典を読むことで、その世界に入り込み、自分が今、「経典を拝読することで、仏にまみえて教えを受けているのだ」という感覚を、仏典編纂者と共有する。大乗経典は、こうした、いわば公共空間がつくりあげられるような内容となっている。
こうした手法をもって仏典を編纂するのは、伝承の形態として「書写」が導入されてこそ、可能となったのではないか。
 *下田正弘氏の研究。同氏による前掲「初期大乗経典のあらたな理解に向けて」、「思考の痕跡としてのテクスト」(『人文知2 死者との対話』東京大学出版会所収)、高崎直道『『涅槃経』を読む』の解説(岩波現代文庫巻末)を参照。

○思えば、遠い昔、口承伝承されたさまざまなコンテンツが、集められ、選ばれ、ある判断の下で確定(=編集)されたものが、「書物」ではなかったか? 「聖書」や「仏典」も、そうして成立してきたのではないか? イエス・キリストについてのいろんな伝承が、あれこれと溢れかえり、それらをもとにした権威が乱立した時、正統性を得るために伝承が線引きされて編まれたのが「新約聖書」だった。釈迦に関するありとあらゆる伝説が散乱し、釈迦入滅後数世紀の後に、「仏典結集」が求められ、断行された。インターネットについても、情報が溢れれば溢れるほど、同じような必要が生じてくるのではないか? いや、すでにそうなっているのではないか? インターネット空間に漂うコンテンツが膨大になればなるほど、「書物」の必要性が増すのではないか、とぼくが思う所以である。(福島聡『紙の本は、滅びない』ポプラ新書)

○電子媒体がもっている根本的な脆弱性―電子媒体の物理的脆弱性、形式依存性、直接不可読性にもっと留意すべきである。人類はロゼッタストーンに刻まれた二千年前からのメッセージを読み解くことができた。しかし、二千年後には人類滅亡後の地球にやって来た宇宙人たちは、ハードディスクの磁気信号に気づくことさえできるのだろうか。(趣意、遠藤薫『書物と映像の未来 グーグル化する世界の知と課題とは』、前掲書からの孫引き)

○口承伝承されたさまざまなコンテンツが、集められ、選ばれ、ある判断の下で確定されたものが、「書物」であったのだ。膨大なコンテンツをあるテクストへと確定して(=編み上げて)いく作業は、権威を必要とする。史書編纂は、中国歴代の王朝に不可欠な作業だった。それは支配の証明であり、力の象徴であった。
そして、そうして成立した「書物」が、今度はそれ自体一つの権威となる。他のコンテンツを編み上げる/排除する「尺度」となる。まるで、「書物」を生み出した「権威」が、自らを生み出した「書物」というモノを座所と決めてそこに住まうかのように(「仏典」も「聖書」もまさにそうであった)。
「権威」によって「書物」が成立し、また「書物」がまた「権威」となる。「書物」とは、そうした運動の結節点(=ノード)である。決して到達点(=ゴール)ではない。即ち、「書物」は、すぐれて「アクティヴ(=活動中)」な存在なのである。
もちろん、「書物」そのものが意志や活力を持って動き回るわけではない。「書物」は、そこに載せられたコンテンツが人々にとって「アクティヴ」な時(=話題となり、議論の主題となり、人々の行動をも左右する時)に、その媒体として優位性を持つ、ということである。そして、そうした優位性は、むしろコンテンツの媒体であることを超えた「書物」の「モノ性」から来るのかもしれない」(福島氏、前掲書)■