七円玉の読書記録

Researching on Nichiren, the Buddhist teacher in medieval Japan. Twitter @taki_s555

日蓮「立正安国論」広本略本異同②

第二回は第四から第七問答までを収録する。凡例等は第一回を参照。略本の真蹟第二十四紙は現存せず、替わりに功徳院日通(1551-1608)が模写して継いでいるが、その箇所は青色で示した。

 

④客猶憤りて曰く、明王は天地に因って化を成し、聖人は理非を察して世を治む。世上の僧侶は天下の帰する所なり。悪侶に於ては明王信ず可からず。聖人に非ずんば賢哲仰ぐ可からず。今賢聖の尊重せるを以て則ち竜象の軽からざるを知んぬ。何ぞ妄言を吐いて強ちに誹謗を成し、誰人を以て悪比丘と謂うや。委細に聞かんと欲す。
主人の曰く、客の疑に付いて重重の子細有りと雖も、繁を厭い多事を止めて、且く一を出さん。万を察せよ。後鳥羽院の御宇に法然というもの有り、選択集を作る。則ち一代の聖教を破し、遍く十方の衆生を迷わす。其の選択に云く「道綽禅師、聖道・浄土の二門を立て、聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文。初に聖道門とは、之に就いて二有り。乃至之に准じて之を思うに、応に密大及以び実大をも存すべし。然れば則ち今の真言・仏心・天台・華厳・三論・法相・地論・摂論・此等の八家の意、正しく此に在るなり。曇鸞法師、往生論の注に云く、謹んで竜樹菩薩の十住毘婆沙を案ずるに云く、菩薩、阿毘跋致を求むるに二種の道有り。一には難行道、二には易行道なり。此の中難行道とは即ち是れ聖道門なり。易行道とは即ち〔是れ〕浄土門なり。浄土宗の学者、先ず須らく此の旨を知るべし。設い先より聖道門を学ぶ人なりと雖も、若し浄土門に於て其の志有らん者は、須らく聖道を棄てて浄土に帰すべし」。又云く「善導和尚、正雑の二行を立て、雑行を捨てて正行に帰するの文。第一に読誦雑行とは、上の観経等の往生浄土の経を除いて已外、大小乗・顕密の諸経に於て受持・読誦するを悉く読誦雑行と名く。第三に礼拝雑行とは、上の弥陀を礼拝するを除いて已外、一切の諸仏菩薩等及び諸の世天等に於て礼拝し恭敬するを悉く礼拝雑と名く。私に云く、此の文を見るに、須く雑を捨てて専を修すべし。豈百即百生の専修正行を捨てて、堅く千中無一の雑修雑行を執せんや。行者能く之を思量せよ」。又云く「貞元入蔵録の中に、始め大般若経六百巻より法常住経に終るまで顕密の大乗経、惣じて六百三十七部二千八百八十三巻なり。皆須く読誦大乗の一句に摂すべし。当に知るべし、随他の前には蹔く定散の門を開くと雖も、随自の後には還て定散の門を閉ず。一たび開いて以後永く閉じざるは、唯是れ念仏の一門なり」と。又云く「念仏の行者必ず三心を具足す可きの文。観無量寿経に云く、同経の疏に云く、問うて曰く、若し解行の不同・邪雑の人等有って外邪異見の難を防がん。或は行くこと一分二分にして群賊等喚廻すとは、即ち別解・別行・悪見の人等に喩う。私に云く、又云く、此の中に一切の別解・別行・異学・異見等と言うは是れ聖道門を指す」と〈已上〉。又最後結句の文に云く「夫れ速かに生死を離れんと欲せば、二種の勝法の中に且く聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲せば、正雑二行の中に且く諸の雑行を抛ちて、選んで応に正行に帰すべし」已上。
之に就いて之を見るに、曇鸞道綽・善導の謬釈を引いて、聖道・浄土・難行・易行の旨を建て、法華・真言惣じて一代の大乗六百三十七部二千八百八十三巻并びに一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て、皆聖道・難行・雑行等に摂して、或は捨て或は閉じ或は閣き或は抛つ。此の四字を以て多く一切を迷わし、剰え三〉の聖僧・十方の仏弟を以て皆群賊と号し併せて罵詈せしむ。近くは所依の浄土の三部経の唯除五逆誹謗正法の誓文に背き、遠くは一代五時の肝心たる法華経の第二の「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、乃至其の人命終って阿鼻獄に入らん」の誡文に迷う者なり。是に於て代、末代に及び、人、聖人に非ず。各冥衢に容って並びに直道を忘る。悲いかな、瞳矇を樹たず。痛しいかな、徒に邪信を催す。故に上国〈王〉より下土民に至るまで皆、経は浄土三部の外の経無く、仏は弥陀三尊の外の仏無しと謂えり。
仍って伝教・弘法〈義真〉・慈覚・智証等、或は万里の波濤を渉って渡せし所の聖教、或は一朝の山川を廻りて崇むる所の仏像、若しくは高山の巓に華界を建てて以て安置し、若しくは深谷の底に蓮宮を起てて以て崇重す。釈迦・薬師の光を並ぶるや、威を現当に施し虚空地蔵の化を成すや、益を生後に被らしむ。故に〈國〉主は〈郡〉郷を寄せて、以て灯燭を明かにし、地頭は田園を充てて以て供養に備う。
而るを法然の選択に依って、則ち教主を忘れて西土の仏駄を貴び、付属を抛って東方の如来を閣き、唯四巻三部の経典を専らにして空しく一代五時の妙典を抛つ。是を以て弥陀の堂に非ざれば皆、供仏の志を止め、念仏の者に非ざれば早く施僧の懐いを忘る。故に仏堂零落して瓦松の煙老い、僧房荒廃して庭草の露深し。然りと雖も、各護惜の心を捨てて、並びに建立の思を廃す。是を以て住持の聖僧行いて帰らず。守護の善神去って来ること無し。是れ偏に法然の選択に依るなり。悲しいかな、数十年の間、百千万の人、魔縁に蕩かされて多く仏教に迷えり。〈傍←謗〉を好んで正を忘る。善神怒を〈成〉さざらんや。〈円〉を捨てて〈偏〉を好む。悪鬼便りを得ざらんや。如かず、彼の万祈を修せんよりは、此の一凶を禁ぜんには。

⑤客殊に色を作して曰く、我が本師・釈迦文、浄土の三部経を説きたまいて以来、曇鸞法師は四論の講説を捨てて一向に浄土に帰し、道綽禅師は涅槃の広業を閣きて偏に西方の行を弘め、善導和尚は法華の雑行を抛って観経の専修に入り〈を立て〉、恵心僧都は諸経の要文を集めて念仏の一行を宗とす。永観律師は顕密の二門を閉じて念仏の一道に入る。弥陀を貴重すること誠に以て然なり。又往生の人、其れ幾ばくぞや。就中、法然聖人は幼少にして叡山天台山〉に昇り、十七にして六十巻に渉り、並びに八宗を究め具に大意を得たり。其の外一切の経論七遍反覆し、章疏・伝記究め看ざること莫く、智は日月に斉しく徳は先師に越えたり。然りと雖も、猶出離の趣に迷いて涅槃の旨を弁えず。故に偏[→徧]〈徧く〉覿、悉く鑑み、深く思い、遠く慮り、遂に諸経を抛ちて専ら念仏を修す。其の上、一夢の霊応を蒙り、四裔の親疎に弘む。故に或は勢至の化身と号し、或は善導の再誕と仰ぐ。然れば則ち十方の貴賤頭を低れ、一朝の男女歩を運ぶ。爾しより来た、春秋推移り星霜〔相〕積れり。而るに忝くも釈尊の教えを疎にして恣に弥陀の文を譏る。何ぞ近年の災を以て聖代の時に課せ、強ちに先師を毀り更に聖人を罵るや。毛を吹いて疵を求め、皮を剪って血を出す。昔より今に至るまで此くの如き悪言未だ見ず。惶る可く慎む可し。罪業至って重し。科条争か遁れん。対座猶以て恐れ有り。杖に携えて則ち帰らんと欲す。
主人咲み止めて曰く、辛きことを蓼の葉に習い、臭きことを涸廁[→溷廁]に忘る。善言を聞いて悪言と思い、謗者を指して聖人と謂い、正師を疑って悪侶に擬す。其の迷誠に深く、其の罪浅からず。事の起りを聞け。委しく其の趣を談ぜん。釈尊説法の内、一代五時の間に先後を立てて権実を弁ず。而るに曇鸞道綽・善導、既に権に就いて実を忘れ、先に依って後を捨つ。未だ仏教の淵底を探らざる者なり。就中、法然は其の流を酌むと雖も、其の源を知らず。所以は何ん。大乗経の六百三十七部二千八百八十三巻并びに一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て、捨閉閣抛の字を置いて一切衆生の心を蕩かす〈薄んず〉。是れ偏に私曲の詞を展べて、全く仏経の説を見ず。〈忘[→妄]〉語の至り、悪口の科、言うても比無し、責めても余り有り。具に事の心を案ずるに、慈恩・弘法の、三乗真実・一乗方便、後に望めば戯論と作すとの邪義に超過し、光宅・法蔵の、涅槃は正見、法華は邪見、寂場は本教、鷲峯は末教との悪見に勝出せり。大慢波羅門の蘇生か。無垢論師の再誕か。毒蛇を恐怖し悪賊を遠離す。破仏法の因縁、破國の因縁の金言是れなり。而るに人皆、其の妄語を信じ、悉く彼の選択を貴ぶ。故に浄土の三経を崇めて衆経を抛ち、極楽の一仏を仰いで諸仏を忘る。誠に是れ諸仏・諸経の怨敵、聖僧・衆人の讎敵なり。此の邪教、広く八荒に弘まり周く十方に遍す。抑近年の災を以て往代を難ずるの由、強ちに之を恐る。聊か先例を引いて汝が迷を悟す可し。止観第二に史記を引いて云く「周の末に被髪・袒身、礼度に依らざる者有り」。弘決の第二に此の文を釈するに、左伝を引いて曰く「初め平王の東遷するや。伊川に髪を被にする者の野に於て祭るを見る。識者の曰く、百年に及ばじ。其の礼先ず亡びぬ」と。爰に知んぬ、徴、前に顕れ、災い後に致ることを。又「阮藉が逸才なりしに蓬頭散帯す。後に公卿の子孫、皆之に教いて奴苟相辱しむる者を方に自然に達すといい、撙節兢持する者を呼んで田舎と為す。司馬氏の滅する相と為す」と〈已上〉。
又慈覚大師の入唐巡礼記を案ずるに云く「唐の武宗皇帝、会昌元年、勅して章敬寺の鏡霜法師をして諸寺に於て弥陀念仏の教えを伝えしむ。寺毎に三日巡輪すること絶えず。同二年、廻鶻〉の〈軍〉兵等、唐の堺を侵す。同三年、河北の節度使忽ち乱を起す。其の後、大蕃〉更た命を拒み、廻鶻〉重ねて地を奪う。凡そ兵乱秦項の代に同じく、災火邑里の際に起る。何に況んや、武宗大いに仏法を破し、多く寺塔を滅す。乱を撥むること能わずして遂に以て事有り」已上取意。
此れを以て之を惟うに、法然後鳥羽院の御宇、建仁年中の者なり。彼の院の御事、既に眼前に在り。然れば則ち大唐に例を残し、吾が朝に証を顕す。汝疑うこと莫かれ、汝怪むこと莫かれ。唯須く凶を捨てて善に帰し、源を塞ぎ根を截べし。

⑥客聊か和ぎて曰く、未だ淵底を究めざるに、数ば其の趣を知る。但し華洛より柳営に至るまで、釈門に枢楗在り、仏家に棟梁在り。然り而して〈然るに〉未だ勘状を進らせず、上奏に及ばず。汝賤身を以て輙く莠言を吐く。其の義余り有り、其の理謂れ無し。
主人の曰く、予少量為りと雖も、忝くも大乗を学す。蒼蠅驥尾に附して万里を渡り、碧蘿松頭に懸りて千尋を延ぶ。弟子、一仏の子と生れて諸経の王に事う。何ぞ仏法の衰微を見て心情の哀惜を起さざらんや。
法華経に云く「薬王、今汝に告ぐ。我が所説の諸経、而も此の経の中に於て法華は最も第一なり」と。又云く「我が所説の経典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし。而も其の中に於て、此の法華経は最も為れ難信難解なり」と。又云く「文殊師利、此の法華経は諸仏如来の秘密の蔵にして、諸経の中に於て最も其の上に在り」と。又云く「衆山の中に須弥山為れ第一なり。衆星の中に月天子最も為れ第一なり」。又「日天子の能く諸の闇を除くが如く」。又「大梵天王の一切衆生の父なるが如く、能く是の経典を受持すること有らん者も、亦復是くの如く、一切衆生の中に於て亦為れ第一なり」と。
〔其の上〕涅槃経に云く「若し善比丘あって、法を壊る者を見て、置いて呵嘖し駈遣し挙処せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駈遣し呵嘖し挙処せば、是れ我が弟子、真の声聞なり」と。
法華経に云く「我身命を愛せず、但無上道を惜むのみ」と。
大涅槃経に云く「譬えば王の使の善能談論して、方便に巧みなる、命を他国に奉るに寧ろ身命を喪うとも、終に王の所説の言教を匿さざるが如し。智者も亦爾なり。凡夫の中に於て身命を惜しまず。要必大乗方等如来の秘蔵、一切衆生に皆仏性有りと宣説すべし」已上経文。
余、善比丘の身為らずと雖も、「仏法中怨」の責を遁れんが為に、唯大綱を撮って粗一端を示す。
其の上、去る元仁年中に延暦・興福の両寺より度度奏〈聞〉を経、勅宣・御教書を申し下して、法然の選択の印板を大講堂に取り上げ、三世の仏恩を報ぜんが為に、之を焼失せしむ。法然墓所に於ては、感神の犬神人に仰せ付けて破却せしむ。其の門弟、隆観・聖光・成覚・薩生等は遠〉に配流せらる。其の後、未だ御勘気を許されず。豈未だ勘状を進らせずと云わんや。

⑦客則ち和ぎて曰く、経を下し僧を謗るは、一人の論難なり。然れども大乗経六百三十七部二千八百八十三巻并びに一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て、捨閉閣抛の四字に載す。詞は勿論なり。其の文顕然なり。此の瑕瑾を守って其の誹謗を成せども、迷うて言うか、覚りて語るか、賢愚弁ぜず、是非定め難し。但し災難の起りは選択に因るの由、盛んに其の詞を増し〈其の詞を盛んにし〉、弥其の旨を談ず。所詮、天下泰平・〉土安穏は君臣の楽う所、土民の思う所なり。夫れ〉は法に依って昌え、法は人に因って貴し。亡び人滅せば、仏を誰か崇む可き、法を誰か信ず可きや。先ず〈國〉家を祈りて須く仏法を立つべし。若し災を消し難を止むるの術有らば聞かんと欲す。
主人の曰く、余は是れ頑愚にして敢て賢を存せず。唯経文に就いて聊か所存を述べん。抑も治術の旨、内外の間、其の文幾多ぞや。具に挙ぐ可きこと難し。但し仏道に入って数ば愚案を廻すに、謗法の人を禁めて正道の侶を重んぜば、〉中安穏にして天下泰平ならん。
即ち涅槃経に云く「仏の言く、唯一人を除いて余の一切に施さば、皆讃歎す可し。純陀問うて言く、云何なるをか名けて唯除一人と為す。仏の言く、此の経の中に説く所の如きは破戒なり。純陀復言く、我今未だ解せず。唯願くば之を説きたまえ。仏、純陀に語って言く、破戒とは謂く一闡提なり。其の余の在所一切に布施すれば、皆讃歎すべく大果報を獲ん。純陀復問いたてまつる、一闡提とは其の義云何ん。仏言く、純陀、若し比丘及び比丘尼・優婆塞・優婆夷有って麤悪の言を発し正法を誹謗し、是の重業を造って永く改悔せず、心に懺悔無からん。是くの如き等の人を名けて一闡提の道に趣向すと為す。若し四重を犯し五逆罪を作り、自ら定めて是くの如き重事を犯すと知れども、而も心に初めより怖畏・懺悔無く、肯て発露せず、彼の正法に於て永く護惜建立の心無く、毀呰・軽賤して言に過咎多からん。是くの如き等を亦一闡提の道に趣向すと名く。唯此くの如き一闡提の輩を除いて、其の余に施さば一切讃歎せん」と。
又云く「我往昔を念うに、閻浮提に於て大〉の王と作れり。名を仙予と曰いき。大乗経典を愛念し敬重し、其の心純善に麤悪・嫉恡有ること無し。善男子、我爾の時に於て心に大乗を重んず。〈波〉羅門の方等を誹謗するを聞き、聞き已って即時に其の命根を断ず。善男子、是の因縁を以て是れ従り已来地獄に堕せず」と。又云く「如来昔、王と為りて菩薩を行ぜし時、爾所の〈波〉羅門の命を断絶す」と。又云く「殺に三有り。謂く下・中・上なり。下とは蟻子乃至一切の畜生なり。唯菩薩の示現生の者を除く。下殺の因縁を以て地獄・畜生・餓鬼に堕して具に下の苦を受く。何を以ての故に。是の諸の畜生に微善根有り。是の故に殺す者は具に罪報を受く。中殺とは凡夫の人従り阿那含に至るまで是を名けて中と為す。是の業因を以て地獄・〔畜生〕・餓鬼に堕して具に中の苦を受く。上殺とは父母乃至阿羅漢・辟支仏・畢定の菩薩なり。阿鼻大地獄の中に堕す。善男子、若し能く一闡提を殺すこと有らん者は、則ち此の三種の殺の中に堕せず。善男子、彼の諸の〈波〉羅門等は一切皆是れ一闡提なり」と〈已上〉。
仁王経に云く「仏、波斯匿王に告げたまわく、是の故に諸の〉王に付属して、比丘・比丘尼に付属せず。何を以ての故に。王のごとき威力無ければなり」と〈已上〉。
涅槃経に云く「今、無上の正法を以て諸王・大臣・宰相及び四部の衆に付属す。正法を毀る者をば大臣、四部の衆、応当に苦治すべし」と。
又云く「仏の言く、迦葉、能く正法を護持する因縁を以ての故に、是の金剛身を成就することを得たり。善男子、正法を護持せん者は五戒を受けず。威儀を修せず、応に刀剣・弓箭・鉾槊を持すべし」と。又云く「若し五戒を受持せんの者有らば、名けて大乗の人と為すことを得ざるなり。五戒を受けざれども、正法を護るを為て乃ち大乗と名く。正法を護る者は応当に刀剣・器仗を執持すべし。刀杖を持すと雖も、我是れ等を説きて名けて持戒と曰わん」と。
又云く「善男子、過去の世に此の拘尸那城に於て、仏の世に出でたまうこと有りき。歓喜増益如来と号したてまつる。仏、涅槃の後、正法世に住すること無量億歳なり。余の四十年、仏法末だ滅せず。爾の時に一の持戒の比丘有り。名を覚徳と曰う。爾の時に多く破戒の比丘有り。是の説を作すを聞きて皆悪心を生じ、刀杖を執持し是の法師を逼む。是の時の〉王、名けて有徳と曰う。是の事を聞き已って護法の為の故に即便説法者の所に往至して、是の破戒の諸の悪比丘と極めて共に戦闘す。爾の時に説法者、厄害を免ることを得たり。王、爾の時に於て身に刀剣・〈箭〉槊の瘡を被り、体に完き処は芥子の如き許りも無し。爾の時に覚徳、尋いで王を讃めて言く、善きかな、善きかな、王、今真に是れ正法を護る者なり。当来の世に此の身、当に無量の法器と為るべし。王、是の時に於て法を聞くことを得已って心大いに歓喜し、尋いで即ち命終して阿閦仏の〉に生ず。而も彼の仏の為に第一の弟子と作る。其の王の将従・人民・眷属、戦闘有りし者、歓喜有りし者、一切菩提の心を退せず、命終して悉く阿閦仏の〉に生ず。覚徳比丘却って後、寿終って亦阿閦仏の〉に往生することを得て、彼の仏の為に声聞衆中の第二の弟子と作る。若し正法尽きんと欲すること有らん時、応当に是くの如く受持し擁護すべし。迦葉、爾の時の王とは則ち我が身是れなり。説法の比丘は迦葉仏是れなり。迦葉、正法を護る者は、是くの如き等の無量の果報を得ん。是の因縁を以て我今日に於て種種の相を得て、以て自ら荘厳し法身不可壊の身を成す。仏、迦葉菩薩に告げたまわく、是の故に法を護らん優婆塞等は、応に刀杖を執持して擁護すること是くの如くなるべし。善男子、我涅槃の後、濁悪の世に〉土荒乱し、互に相抄掠し、人民飢餓せん。爾の時に多く飢餓の為の故に発心・出家するもの有らん。是くの如きの人を名けて禿人と為す。是の禿人の輩、正法を護持するを見て駈逐して出さしめ、若しくは殺し若くは害せん。是の故に我今、持戒の人の、諸の白衣の刀杖を持つ者に依って、以て伴侶と為すことを聴す。刀杖を持すと雖も、我是れ等を説いて名けて持戒と曰わん。〔刀杖を持すと雖も、応に命を断ずべからず〕」と。
法華経に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、即ち一切世間の仏種を断ぜん」。又云く「経を読誦し書持すること有らん者を見て、軽賎・憎嫉して結恨を懐かん。乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」已上経文
夫れ経文顕然なり。私の詞、何ぞ加えん。凡そ法華経の如くんば、大乗経典を謗ずる者は無量の五逆に勝れたり。故に阿鼻大城に堕して、永く出る期無けん。涅槃経の如くんば、設い五逆の供を許すとも、謗法の施を許さず。蟻子を殺す者は必ず三悪道に落つ。謗法を禁ずる者は不退の位に登る。所謂、覚徳とは是れ迦葉仏なり。有徳とは則ち釈迦文なり。
法華・涅槃の経教は一代五時の肝心なり。八万法蔵の眼目なり。其の禁、実に重し。誰か帰仰せざらんや。而るに謗法の族は正道の人を忘れ、剰え法然の選択に依って弥愚癡の盲瞽を増す。是を以て或は彼の遺体を忍びて木画の像に露し、或は其の妄説を信じて莠言の模を彫り、之を海内に弘め、之を郭外に翫ぶ。仰ぐ所は則ち其の家風、施す所は則ち其の門弟なり。然る間、或は釈迦の手指を切って弥陀の印相に結び、或は東方如来の鴈宇を改めて西土教主の鵝王を居え、或は四百余廻の如法経を止めて〔西方〕浄土の三部経と成し、或は天台大師〔講〕を停めて善導講と為す。此くの如き群類、其れ誠に尽くし難し。是れ破仏に非ずや、是れ破法に為[→非]〈非〉ずや、是れ破僧に非ずや、是れ亡國の因縁に非ずや。此の邪義則ち選択に依るなり。
嗟呼悲しいかな、如来誠諦の禁言に背くこと。哀なるかな、愚侶迷惑の麤語に随うこと。早く天下の静謐を思わば、須く〉中の謗法を断つべし。■

つづく